ディベートではなく

承前*1

冷泉彰彦*2「サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない」http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/09/post-193.php


今話題のハーヴァードにおけるマイケル・サンデルの教養講義は「サンデル先生の専売特許でも、ハーバードの特殊な優位性を表しているものでも何でもありません」という。米国の大学ではどこでも行われている;


合格者のSAT(大学進学適性試験)2教科平均点で1500点近辺のハーバードなど「アイビー」であっても、1000点台で入れる小規模カレッジや地方州立であっても、こうしたスタイルの授業は当たり前です。宿題に「リーデイング・アサインメント(読書リスト)」を提示して、各人はそれを読んで内容を把握しつつ自分の立場を決めてくる、それを元に授業では討論に参加する、そんな形式です。仮に授業規模が大き過ぎて講義の時間内では全員に発言機会を与えられない場合は、その授業とペアになる少人数セッションの受講を義務付け、助教なども加わって、全員がディスカッションや作業に参加、そこで「ちゃんと課題を読んだか?クラスメイトの議論活性化に貢献したか?」をアピールしないと単位は取れません。そんな仕組みです。
これに付け加えれば、日本の大学でもゼミというのは(本来)そういうものだろうとはいえる。
さて、面白かったのは、冷泉氏が

 かつての日本(今でもそうですが)では、公教育はまるで保守的な反面教師のように、静的な知識の紹介と定型的な訓練の反復に徹していました。社会で本当に必要な動的・相互的な頭の使い方の訓練の部分については、若者たちは、例えば学生運動や文学サークル、演劇活動などで補ってきたのです。ですが、そうした機会は、価値観の多様化とともに衰退してしまいました。若者の知識や価値観は、そこに時代や世代の流行があり、誰もが仲間意識を持っていれば何らかのコミュニケーションを通じて活性化されるかもしれませんが、現代のような多様化の時代では自然発生的なものには期待できないようです。であるならば、公教育でそうした動的・相互的な頭の使い方や、そのためのコミュニケーション様式の訓練を行うことは急務でしょう。
と書いているところ。俺が見知っている、或いは馴染みがあるサークルも、政治系、文学系、演劇系なのだ。勿論こうしたサークルに参加していたのは学生全体から見れば(量的な意味で)マイノリティにすぎなかったわけだが、学生が授業ではなく、こうしたサークルに参加することによって、それなりの、時にはトンデモな教養を身につけたというのは事実だろう。少なくとも、俺はその当事者だ。
その後の方には、「主張」の否定を「人格」の否定に結び付けないなど、首肯できることが述べられているのだが、どうも(冷泉氏だけの話ではないのだが)「ディベート」ばかり強調するのはどうかなと思う。「ディベート」というのは議論というもののひとつの様態ではあっても、「ディベート」でもって議論一般を代表させたくないよということだ。何よりも「ディベート」は議論を勝―負に還元することによって、議論から豊饒な夾雑物を削ぎ落とし、議論のロゴサントリスムを強化してしまう*3。勝った負けたよりも、重要なのは先行する言説を承けて、それに何を如何様に付け加えるのかということだろう。先月松岡心平『宴の身体』を久しぶりに捲ってみたのだが*4、「連歌」と「一揆」の関係について以下のように語られていた;

第一は、連歌の融和的側面である。連歌では、他者をよく理解し、前の句を充分に咀嚼しないと、いい句は付けられない。そして、完全に目立たないような句を作っても面白くないし、また突出してしまうと全体の雰囲気が壊れてしまう。つまり、連歌会においては、全体の「座」の空気を常に感じ取り、その流れに寄り添って出句していかなくてはならないという、気くばりが常に要求されるのであり、これはまさに、一揆集団をまとめていく時の配慮と結びつくのである。
第二は、連歌のもつ興奮性である。連歌の付合には、他人が付けるということにより見当もつかない偶然性が一句ごとに介入してくるのであり、偶然性によってひきおこされる意外さの感興の集積が、連衆全体を興奮へと導いていくのである。連歌は、道の世界への言葉による旅立ちであり、集団による言語の冒険なのだ。こうして、「一巻の終りに至り手は某々の句のよかりし、すぐれたりしなどの意識は何もなくなり、たゞ面白し、愉快なりと感ずるのみにして恍惚として我を忘れたる境に」(山田孝雄連歌概説』岩波書店)達するのが、上級の連歌というものであり、これは一揆集団における身心の昂揚という側面にぴったりと結びつくのである。(pp.72-73)
宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

さて、『朝日』の記事;

友だち作り、大学がお手伝い 入学前からSNSや交流会(1/2ページ)

2010年9月12日15時31分


 「大学に入ったら、友だちができるだろうか」。入学前の高校生らの不安に応えようと、大学が「友だちづくり」の手助けに乗り出している。インターネットの交流サイト(SNS)を作ったり、入学前の準備教育でイベントを実施したり。友だちができないために大学になじめず中退する人を減らそうと手間ひまかけて応援するようになった背景には、合格発表から入学まで半年近く時間が空く推薦・AO入試の普及があるようだ。

 「今日はこのSNSで友達になった人と一緒にいました!友達っていいね♪」

 「今日はお疲れ様!楽しかったよ!!!!!」

 関東学院大横浜市)工学部が入学決定者向けに設けたSNSの「友達をつくろう」というコミュニティーへの書き込みだ。

 同学部がSNSを導入したのは2年前。推薦入試やAO入試で前年秋に合格が決まった人に、高校までの勉強を学び直す入学前準備教育を行うようになったことがきっかけだった。インターネットを使って場所や時間を選ばずに勉強できるeラーニング式で実施したところ、学生生活に対する質問が続出。このため学生と大学教職員、さらに学生同士がやりとりできるSNSを導入した。

 今年度の入学生は、91%がこのSNSにログインした。「いろいろな人とやりとりして、入学するのが楽しみになった」「入学前の不安がやわらいだ」との感想が寄せられている。

 同学部の辻森淳教授は「高校から1人だけ入学する学生らに不安を訴える子が多い。一般入試なら直前まで受験勉強をするので考える時間がないが、推薦・AO入試の合格者は入学まで半年も間が空くので不安が大きくなるようだ」と話した。
http://www.asahi.com/national/update/0909/TKY201009090152.html

大阪学院大・同短大(大阪府吹田市)は、「リアル」な友だちづくりの場として、毎年3月に入学予定者の集いを開いている。友だちをつくって大学生活をスムーズに始め、ひいては中退する学生を減らす効果を期待している。在学生が主導してゲームや自己紹介をして交流するという。

 聖学院大(埼玉県上尾市)では、10年前から続けている入学前準備教育を、学部学科の垣根を超えた友だちづくりの場と位置づける。AO・推薦入試で合格した入学予定者は、希望すれば2月上旬から11日間、予備校講師らの指導を受けることができる。ここで、テーマを決めてフリートークをするなど、入学予定者同士がやりとりする機会を意識的に作っているという。

 山下研一広報企画部長は「友人づくりが苦手な子には、準備教育を手伝う在学生が悩みを聞き、社交的な子に引き合わせることまでしている。在学生にも後輩の面倒をみることでコミュニケーション力がつき、一石二鳥の効果がある」と話す。(増谷文生)
http://www.asahi.com/national/update/0909/TKY201009090152_01.html

関東学院については、その学生対応についてかなり激しくdisったことがある*5。それはさて措き、Mixiにこれらの大学のコミュはないのか。あるのなら、〈民業圧迫〉だ! 「入学前」はともかくとして、かつては新入生のケアというのは自治会とか学生有志が〈新歓活動〉として行っていたものだ。つまり、学生運動が衰退したおかげで、大学の教職員は余計な仕事を抱え込んでしまったということになる。大学を政府に置き換えてみると、自発的な公共活動が衰退することによって、それらを政府がお仕事として抱え込まざるをえなくなり、必然的に〈大きな政府〉が誕生することになる。それに対して、〈市場原理〉云々とか言い出せば新自由主義。枕がサンデルだったからというわけでもないのだが、何故か血中コミュニタリアン濃度が高くなってしまった。