福は去る。

沖縄の普天間飛行場問題についてはこの間言及をしてこなかった。
結局は元の木阿弥、社民党福島瑞穂党首の閣僚罷免という事態になったようだ。これに関しては、様々な論評が出ているのだが、広坂さんの意見と「研幾堂」さんの意見は特に共感するところ大であった。
広坂さん曰く、


鳩山首相は「最低でも県外」と言い、かつ五月中に解決できなければ職を辞すると公言していたのだから、辞任すべきである。

万事決着とはいえなくとも、せめて「最低でも県外」という方針の延長線上で、解決の見通しが立ってでもいれば、マスコミがなんと言おうと私は辞任の必要はないと思うが、結局、辺野古ということであれば、これはもういたしかたない。鳩山氏は政権交代を成し遂げたことでもってよしとして、潔く総理の職を辞すべきだろう。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100528/1275058318

広坂さんの議論に関しては、カントの「統制的原理」と「構成的原理」を巡るhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090219/1235057079も参照されたい。
「研幾堂」さん曰く、

鳩山由紀夫総理大臣は、福島元大臣を罷免した。私は、このようなことが為されたならば、それと並んで同時に、鳩山首相自身も、その判断に従った行動を取るべきだと思う。それは、苟も国家の最高判断者たるを求められる人が、何をさしおいてもそう為すべきところと思うからである。他に対して権限上の命令なり、処罰なりを下すに用いた判断方法、判断基準等を、全く同等に、自らに対しての判断に於いても用いないような、そのような国家上の最高指揮権者による政治は、決して、平等な人々に於ける政治とは言い得ないものである。

 そして、福島元大臣が主張し、その実行を求めたところのものは、従来、鳩山首相自身が広言し、その実行を約してきたところのものである。福島元大臣に対し罷免の処置を下した様よりすれば、そう主張し、その実行を求めることが罷免という政治的地位の剥奪に値するとの判定を、首相自身が有していることを明瞭に告げている。であるならば、鳩山由紀夫自身に対してもまた、全く同じ判定基準による政治的処罰を下すのが、最高指揮者たるものが為すべき衡平な判断と言うべきである。

 ところで鳩山由紀夫自らは、従来の主張を破棄し、従来の方針を変更したことを、謝罪するという形で、しかるべき処罰に付したと言うかも知れない。しかし、私は、それは適度なものでもなく、十分なものでもなく、そしてまた妥当なものであるとも思われない。何となれば、その主張と、その方針とによって、この国の政府、ならびに関係諸機関、そして関与する様々な人々が、数ヶ月間に及ぶ権能、職務、そして生活上の行使とエネルギーとを費やした。これを過去の損失と呼ぶならば、これに対し、福島元大臣の罷免の根拠は、将来生ずるであろう損失の防止であると言えよう。

 であるから、将来の損失への処罰として、罷免が相当すると判断するならば、その損失を生じさせるのと同じ原因物、つまり同じ主張、同じ方針、そして同じものの実行要求によって過去に生じたところの損失に対する処罰もまた、同じく罷免に匹敵するものであってこそ、衡平なものであると言われ得る。そして、大臣の地位の剥奪と匹敵する同等の処罰には、首相辞任というものしかあり得ない。
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20100529

まあ、鳩山内閣に今後ツキはないだろう。福は去ってしまったのだから。