経済が政治を

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100412/1271074489


広坂さん曰く、


ところで、新自由主義新保守主義の相性がいいのは、新自由主義というものがその名前通りのリベラリズムではなく、優生主義に近いものだからなのではないかという気がしている。新自由主義を名前通りに、政治思想・経済思想の自由主義のニューバージョンとすると全体主義化する理由がわからなくなるが、優生主義の一種だとすれば社会有機体説を採るのだろうから、筋の通らないことではなくなる。新自由主義的政策に賛同する自称国家主義者に露悪的なまでの差別的言動や排外主義がまま見られるのも、原因はそんなところにあるのではないかなどと思う。
卓見だと思う。
ただ、さらに根深い問題として、現代社会において〈政治〉が〈経済〉に乗っ取られてしまっているのではないかということを指摘しておきたい。よく言われる新自由主義社会民主主義福祉国家)かという論点、これはよく考えてみると、政治体制ではなく経済体制に関する争いである。そのどちらに左袒するにせよ、そこでは〈政治〉は〈経済〉の手段、〈経済〉の露払い或いは尻拭いと考えられている。政治理論的な問題としては、アレントが言う「社会的なるものの勃興(rise of the social)」(『人間の条件』第6節を参照)と関係があるのだろう。この「社会的なるものの勃興(rise of the social)」において、全体社会はひとつの大きな家として見做されるようになる*1。家、オイコス、家政(economy)、すなわち経済である。経済学はpolitical economy、つまりポリス(国家)の経済となることによって、近代的な学として存立したのだが、同時に当のポリスの方がオイコスになってしまったということになる。「国家の主婦」としての財務省主計局の意を承けた「事業仕分け」なるものが注目されるというのも当然ではある*2。ここでは、自由や権利といった、真に政治的な問題がそれ自体として議論されにくくなるということはある。しかし勿論、政治の家計化(economization?)を直ちに・全面的に拒絶することは不可能ではある。また、別の系譜的な事情として、「インタレスト(利益感情)」(利害、利益)という概念があるだろう。山崎正和氏がアルバート・ハーシュマンを参照しつつ言うところによれば、ルネサンス期の知識人たちにとって、暴君たちの野蛮な情念を如何に緩和するのかということが重要な課題だった(『社交する人間』、p.198ff.)。それに対しては宗教的・道徳的なお説教は効果がない。そこで見出されたのが「損得勘定」によって「感情一般を抑制する独特の感情」としての「インタレスト(利益感情)」であった。
The Human Condition

The Human Condition

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

さて、自由主義新自由主義などを巡って、森政稔『変貌する民主主義』から少しメモをする;

自由主義の源流は多様である。身体的・精神的従属からの自由、思考の自由、宗教的寛容、法の支配による王権の制約、私的所有権の擁護、等々。今日から見ると、自由主義は個人の自由という意味で個人主義と不可分のように思われるが、ヨーロッパ中世後期のように、各団体がそれぞれの特権を有しており、これによって王権の恣意を制約することに自由を見出す考え方も根強くあった。このような身分制議会的な発想は、普遍的な個人の自由ではなく複数の特殊的自由(諸自由)の擁護であり、伝統の破壊ではなく伝統の確認と結びついていた。(p.51)

政治的自由主義の系譜(源流)は経済的自由主義のそれに先立って存在した。モンテスキューの思想やイングランド議会制の伝統は、このようなヨーロッパ中世から近代へと継承された自由の政治的側面を代表している。一方、経済的自由主義の源流はロックにさかのぼることが可能であるとしても、その主要な部分は一八世紀以降になって形成された。(pp.51-52)

新自由主義はたしかに民主主義を否定して、別の政治原理に取り替えようとするわけではない。しかし、自由な経済活動の称揚は、政治への一般的不信と表裏一体になっており、政治を限界づけることが、民主主義を限界づけることにつながっている。それは社会主義的な再分配を拒否するだけでなく、利益政治的な民主主義にも、既得権益の擁護であるとして不信の眼を向ける。個人は合理性を持った自己決定の主体であり、その決定に自己責任を負うべきであると考えられており、政治が公的責任を負うべき領域は狭められる。政治に依存して生活しているとされる人々(たとえば公務員や補助金を受け取る地方住民など)に、新自由主義は攻撃を集中する。こうして民主主義そのものはかならずしも批判の対象ではないものの、政治の領域の縮小が民主主義の縮小という結果をもたらしていることは無視できない。(pp.67-68)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090812/1250097530における同書からの抜き書きも参照されたい。
変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

ところで、広坂さんはhttp://d.hatena.ne.jp/kechack/20100412/p1に言及して、「全体主義全体主義たらしめるのは、新自由主義とか新保守主義といった政策理念を掲げる側だけでなく、私のような穏健な無党派層付和雷同による」と述べている。勿論それはそうなのだが、別の側面を述べてみる。「付和雷同」というと道徳的な非難のニュアンスが含まれてしまうが、それは(社会生活を基礎づける)私たちの基本的な能力に根差している。それがほんとうか嘘か、実在か非実在かはさて措き、私たちは他者が心を持っているということを自明なことと考え、その都度その都度他者の心、或いはそれが醸し出す〈空気〉*3を読んで(或いは読んだつもりになって)、他者に対して振る舞っている。言いたいことは、私たちが自らの社会的な振る舞いを決定するに際して重要なのは、自分がどう思っている・感じているかということよりも、他者たちがどう思っている・感じているか(を自分がどう思っている・感じているか)ということだ、ということだ(これについては、大澤真幸『戦後の思想空間』における議論も参照のこと)。「付和雷同」が起こるのも、(それが正しいのかあやまっているのかは別にして)敏感に他者の心とか〈空気〉を読んでしまうからだろう。片隅の疑念に拘るよりも社会的に浮いてしまわないこと、時の波に乗り遅れないことを優先する、等々。
戦後の思想空間 (ちくま新書)

戦後の思想空間 (ちくま新書)

*1:これについては、Hanna Fenichel Pitkin The Attack of the Blobの議論も参照されたい。

The Attack of the Blob: Hannah Arendt's Concept of the Social

The Attack of the Blob: Hannah Arendt's Concept of the Social

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258746079

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100212/1265948020