「製作品の世界」への「自然」の現れ

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第5節「周囲世界のうちに共同世界があらわれること」b「自然として」。
ここで実際論じられているのは、「製作品の世界」存立の「自然」的限界について。


人間の意図によってつくり出されたものの範囲でもすでに、人間的なものの外部にある「自然」がふたたびあらわれる。どのようなものからでも、机をつくり上げるというわけにはいかない。どのようなものでも、その「自然(Natur)」*2からして机に向いているとはかぎらないからである。目的のほうが端的に「規定的」であるというわけではなく、目的は〔それを実現する〕*3材料の選択においてその材料が目的に適っているかどうかに規制される。規定には、したがって、或るものがそれから製作されるものの本性(Natur)のうちに、その自然的な限界をもつ。製作されるものが〈それから〉つくり上げられるこの自立的な自然(Natur)は、人間による加工に抵抗するばかりではない。すでに製作されたものにあっても、抵抗はふたたびつらぬかれる。机にはひびが入る。素材である材木自身が――すべての自然的なものがそうであるように、まったく「ひとりでに」――「はたらく」からである。人間がじぶんの製作品をそのまま放置しておくなら、製作品はまったくひとりでに、自然というその根源的な状態へと立ちもどってゆく。製作品が製作品として解体することは、同時に自然的な生起の過程を意味している。自然はその自然的なありかたにおいて、こうした根源的な自立性を有する。それが人間に対して欠如的なかたちでさし示しているのはさしあたり、それ以上―耕作しえないもの、それ以上―調教しえないもの、それ以上―統御しえないもの等々なのである。(pp.96-97)