二重の否定を巡って

http://www.m-kiuchi.com/2010/02/18/toyotarecall/(Via http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100219/1266583466


トヨタのリコール問題について、城内実*1が「まさか天罰が下ったということではあるまい」と言っている。これに対して、(城内の天敵ともいえる)『凪論』というblogが批判を加えている*2。「凪」という名前に反して、これはちょっとした嵐を惹き起こしたようで、城内blogのコメント欄では、「天」を巡る宗教哲学的議論や日本語文法に関する議論が捲き起こっている*3。ここにおける城内実の発言は〈文学〉として興味深い。以下は政治家城内ではなく、作家城内に対する批評となるので、あしからず。
ここにおいて、城内実は一貫して正しいように思える。正しいにも拘わらず、彼はその正しさを否認しようとして、否認することによって、恐らく彼の意に反して、却ってその正しさが印象づけられてしまっているように思える。城内は「トヨタといえば、小泉政権下でトヨタの会長で経団連会長(当時)でもあった奥田氏が郵政民営化を強引に進めたことが記憶に新しい」と理由めいたことを述べた上で、「まさか天罰が下ったということではあるまい」と続けている。それに対して、城内は「「まさか」と「あるまい」で二重に疑問をていしているのに、みなさんあたかも「天罰くだったざまあみろ」と解釈しているのですね」と釈明している。そもそも「天罰」というのは、天罰だ! と断言的にいうことはできない。何故なら、「天」に天罰を下したんですかと訊いても、はいとかいいえとか答えてくれるわけはないからだ。つまり、「天罰」かどうかはあくまでもこちら側が推測するしかない。だから、「まさか天罰が下ったということではあるまい」と書く城内は正しい。また、確証不可能であるにも拘わらず、それを超えた確信のようなものを城内は抱いている。彼は「天罰ではないことを信じたい」と自らの文を註釈している。これは、その確信が〈信じたくない〉という主観的願望を超えたものであることを示している。こういうことというのは日常的にもちょくちょく起こることなのだろう。彼女が彼氏の部屋のベッドの脇に見知らぬピアスがあることに気づく。そのとき、彼女は〈信じたくない〉けれど彼氏に別の女がいるという事実に直面しなければならない。城内に話を戻せば、彼は「天罰ではないことを信じたい」けれど、その確信はそういう主観的願望を超えているということを述べているということになる。
「信じる」という動詞が孕む問題については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169521302で無駄口を叩いたことがある。


「天罰」発言がもし民主党の政治家によって発せられたとしたら、それは全国区的、ひょっとしたら国際的な話題になって、誰もが面白おかしく、或いは青筋を立てて、論じていることだろう。最大野党である自民党の政治家の場合も、騒ぎは大きくなった筈だ。それが身内の言い争いという小さな嵐にとどまっているというのは、多義的な意味においてハッピーなことではあろう。