承前*1
http://anond.hatelabo.jp/20100213044616
関西/関東とはいっても、食に関する語彙の話ではなく、大阪人の東京観。話の主旨がよくわからないのだが、多分東京vs. 大阪という対比はあまり有効ではないような気がする。関西/関東という枠組で考えると、関東では、横浜はけっこういい線行っているのだが、端的に言って、東京以外は全て田舎、若しくは東京の殖民地にすぎない。それに対して、関西は大阪、京都、神戸という大都市の複合体として考えられる。また、西宮、芦屋、宝塚などもたんなる郊外(殖民地)にとどまらない存在感を持っているのではないか。
四方田犬彦氏はそこら辺のことを次のように書いている;
話はいささか大袈裟になるが、そもそも関西という土地は、都市どうしの独立性が強く、東京からみて簡単に関西と一括りにしてすむというものではない。大阪は大阪、神戸は神戸、京都は京都と、それぞれの都市は、人柄も言葉も街角の雰囲気も異なっていて、多元的かつ複合的な文化圏を形作っている。これは千葉や埼玉がいっせいに東京のほうを向いていて、都市のもつエスニシティの抑圧に甘んじているのとは対照的であるように思われる。それぞれの都市が固有の文学者を抱えていることはいうまでもない。織田作之助が大阪の作家であるように、稲垣足穂は神戸、生田耕作は京都の文学者であって、これがもし別の都市に生を享けていたならば、彼らは現在われわれが知っているような形では作品を遺さなかったであろう。こうした文化のあり方は、わたしにはフランスではなく、むしろイタリアを強く思い出させる。フランスがパリを除けばあとはすべて田舎という中央集権主義を、歴史的に育んできたのに対し、イタリアは徹底して中心をもたない社会を築きあげてきたのだった。(後略)(「須賀敦子、文体とその背景」『文藝別冊 追悼特集 須賀敦子』河出書房新社、1998、p.180)
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