クリシェなど

承前*1

田島正樹*2朝青龍関の引退」http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/51969041.html


角力のこととは直接関係ないが、「クリシェ」を巡る、


どんな言葉も、それ単独でクリシェになることはありません。それが使はれる文脈が、暗黙のうちに俗情との結託を前提してゐる場合、それがクリシェになり下がるのです。ですから、この「俗情との結託」といふ言葉すらも、大西巨人氏が使ったときには持ってゐた鮮明な批判的エッジを失ふ場合、クリシェにならない保証はないわけです。
 福沢諭吉は、当時すでにクリシェとして使はれることの多かった「国体」といふ言葉にさへ、生きた意味を割り当てました。つまり「他国に占領されない事が、国体を保持することの内実」としたのです(『文明論の概略』)。一般に学術用語は独自の含意をもつものですから、それを使はないと、短い表現で正確な内容を言ひ表すことが難しいでせう。その場合、クリシェといふのはあたりません。また「生きた日本語」とか「自分の言葉で話す」といふ表現も、クリシェに流れる文脈もあれば、さうでない文脈もあるのです。文脈を読むリテラシの衰退は、それ自体が大勢順応的メンタリティと脊髄反射的思考習慣の現れでしかありません。
という言は特に書き留めておくに値する。
さて、田島氏曰く、「伝統は「純化」することによってはますます委縮し、枯渇してゆくものなのだ」。これについては少しコメントしておかなければならない。先ず、「伝統」といっても明治以降のもの。廃藩置県によって、角力はそれまでの殿様というパトロンを失い、新たに国民国家としての日本というパトロンを求め、ナショナリズムに寄り添うことを余儀なくされた*3。また、角力だけでなく、伝統的に武術とか武藝と言われたもの、さらには〈スポーツ〉一般に対する態度は 、近代になって、一方における世俗的合理主義と他方における精神主義に分裂した*4。この2つは時には鋭く対立し、時には野合したりしながら、併存している*5角力を巡る「国技」とか「品格」云々という言説はこの文脈で理解しなければならない。
また、上の枠組において周縁化されるのは先ずパフォーマティヴ・アートとしての角力だと言えるのだが、それとともに、伝統的な民俗宗教的コスモロジーに基づく儀礼的な側面も周縁化を余儀なくされる。ところで、このコスモロジーは、日本とか、さらには江戸というローカル性に根差しながら、全亜細亜的な普遍へと繋がる可能性も有しているのだ。これが何時頃まで守られていたのかは知らないが、力士は牛や豚などの四つ足の動物の肉を食べてはいけないというタブーがあった。勿論、それは角力では四つ足になることは負けを意味するからなのだが、力士が四つ足を避けて鶏肉を食べるということにはさらに象徴的な意味がある。力士は先ず金剛力士の化身であるといえるわけだが、さらにそれは印度のガルーダまで遡れる。だからこそ、蒙古角力で勝者は鳥の舞をするのだ。

さて、以前小錦がバッシングされたときは、山口昌男先生がメディアで小錦を擁護したのだけれど。田島氏に「どこかの四流の脚本家」といわれた内舘牧子だが、山口昌男ではなく彼女を横綱審議委員にしたというところに、日本相撲協会の致命的なセンスの悪さを感じる。とはいっても、山口先生はご高齢で、杉浦日向子さんは既に没している。だとしても、せめて中沢新一とか田中優子といった人々に委嘱すべきであろう。