留学生ではない?

『朝日』の記事;


井真成」はどんな人? 中国で官吏説


2004年に中国の古都西安で見つかった遣唐使墓誌に刻まれていた、日本人・井真成の人物像をめぐり、日中間で説が割れている。日本では奈良時代遣唐使に選ばれた留学生という解釈が一般的だが、中国では、唐の学校制度などから見て異論があり「留学生ではなく、遣唐使の随員(役人)」との主張が登場した。「井真成はどんな人?」との疑問に迫ろうと研究が続くが、日中間の議論はいっこうに収束しそうにない。

 留学生説を否定したのは、復旦大(上海)の韓昇教授だ。昨年末に出た専修大の東アジア世界史研究センターの年報に、「井真成墓誌の再検討」との論文を寄せた。

 墓誌によると、井真成奈良時代の734年に36歳で死亡した。懸命に勉強したとの記述があることから、717年の遣唐使船で派遣された留学生と見られてきた。

 だが、韓教授は、733年に到着した次の遣唐使の随員だったとの論を展開する。

 まず、唐の制度では、官立学校の在学期間は最長9年までで、それ以上は滞在もできなかったと指摘し、「十数年にわたり留学したとの見解は成立しがたい」とする。

 また、井真成の死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではないことや、亡くなった場所の官第は短期滞在の外国の使節の宿泊所であることなどから、「井真成は留学生では決してない」と強く否定している。

 さらに、井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したとも墓誌には記されているが、それは三等官以上の外国使節に対する扱いであることを紹介する。だが、遣唐使の三等官以上に相当する人物は見あたらない。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201001270232.html

そこで、韓教授は、唐に派遣するために臨時に昇格させる借位をしたからだと推測する。追贈された尚衣奉御は従五品上の官位だが、唐では、本国より一階級上の位を贈るのが原則。井真成は日本では従六位下だったが、使節団では借位して従五位下となり、三等官と四等官の間の上席准判官の役職だったはずだと結論づけている。そして韓教授は「唐の制度を検討してみると、井真成は留学生だとの説には根拠がない」と論文を締めくくっている。

 国学院大の鈴木靖民教授は「韓さんの説は論証も丁寧で検討に値する」と評価したうえで、「随員として尚衣奉御にふさわしい身分を推定すれば日本でも高級官吏だったはずだ。遣唐使の幹部で死去したのなら記録に残っていいのだが、一切伝えられていない。そうした日本の制度からすると、留学生として唐に渡り、現地で登用された阿倍仲麻呂のような人物だったが、若くして亡くなったために中国側の記録に残るほどは栄進しなかったと見るのが自然だと思います」と語る。

 中国側には当初から、在学年限制度をもとに短期留学生説や随員説があり、具体的には朝廷の衣服制度を学ぶのが目的だったのでは、という見解があった。韓教授の論文は、そうした見方を総括したものともいえる。

 一方、日本側では、日本の遣唐使は20年に1回程度で、頻繁に派遣した新羅など他の周辺国とは事情が違い、帰国の迎えとなる次の遣唐使までは残留が認められたはずだという声が強い。

 墓誌が世に出るきっかけをつくった専修大は、「古代東アジア世界史と留学生」というテーマを掲げ研究を続けている。研究は深まっているようだが、同時に日中間の見解の溝も広がっているようにみえる。井真成が旅立ったはずの奈良に都が移って今年は1300年。時間の厚い壁を感じさせる。(渡辺延志)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201001270232_01.html

中国(上海)での報道としては、石剣峰「上海学者推翻日本“遣唐使”結論」(『東方早報』2010年2月4日)。