構築/構成――田崎英明

直接的にはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070923/1190523230の補足。ただ、「受動性」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060221/1140547241http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060315/1142441815http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060501/1146502155http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060728/1154089615http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070321/1174455126http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070620/1182357632http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070822/1187751553とかでも言及しているので、それにも関連する。

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

田崎英明ジェンダーセクシュアリティ』(岩波書店、2000)から。
ここで、ジュディス・バトラーから見たキャサリン・マッキノンへの批判が採り上げられている;

彼女[バトラー]が本質主義と呼んで批判するのは、ジェンダーを生物学的なセックスに基礎をもつ自然なものであるとする反フェミニズムの性差別主義ばかりではない。もうひとつの主要な論的[sic――敵の誤植?]は、ラディカル・フェミニズムを標榜するフェミニスト法学者で、おそらくアメリカ合州国で最もメインストリームなフェミニストといっていい存在であるキャサリン・マッキノンなのである。(p.80)
マッキノンについて、田崎氏は

マッキノンの議論は表象の批判として理解することができる。彼女の論理構成は単純化すれば、以下のようにまとめられるだろう。表象する主体と表象される客体があり、男性はつねに表象する主体というポジションを占め、女性は表象される客体=対象のポジションに追いやられる。能動性、主体性は男性によって独占され、女性には受動性、客体性しか残されていない。表象する主体は、表象を構築する権力をもち、表象されるだけの客体は、その表象に合わせて自分自身を作る以外に存在の余地はなくなってしまう。表象する主体は自分の欲望に適ったかたちで表象を構築することができるばかりかではない。そもそも表象を作ること自体に、他者を自分の欲望の対象とすること自体が支配なのであって、その支配そのものに快楽を覚えるようになるのである。(p.81)
と纏めている。さらに、

マッキノンにとって男性が表象の主体の位置を独占するだけではない。むしろ、他者を対象(モノobject)の位置に置くことから快楽を得る者こそが男性なのである。ジェンダーの「社会的構築」を強調するマッキノンは、男性であるか女性であるかを規定するのは、生物学的なセックスではないという。そこから、彼女が引き出す結論は、サディズムを実践する女性は、生物学的な見かけは女性でも、ジェンダーという点からすると、実は、女性ではない、ということなのである。(p.82)
マッキノン、或いは「ラディカル・フェミニズム」の出発点となった「コンシャスネス・レイジング」(pp.82-83)――

コンシャスネス・レイジングは、今日でも、同性愛者を初めとするさまざまなマイノリティの運動にとって大切な武器である。それは、すでにある概念によってはいまだ規定できない経験の多様性こそが、人間の解放とそのための運動の始まりに位置するものだからだ。ところが、マッキノンたちは、その経験から取り出してきた定義(一言でいってしまえば、マッキノンにとって女性とは「家父長制の犠牲者」である)が、今度は逆に、経験に対して選別原理として働くようになってしまうのである。たとえば、「サディストのレズビアンの経験は女性の経験のうちには入れられない、なぜなら彼女は生物学的には女性であっても、社会的には男性として構築されているから」というかたちで。(p.83)
そして、「構成」と「構築」について;

おそらく、ここで問題とすべきなのは、経験において主体がどのように構成constitutionされるかであって、主体が経験や表象をどのように構築constructionするか、ではない。「構成」は、フッサールドゥルーズが「受動的綜合」と名指した場面にかかわるのである。マッキノンは非人称の経験から性急に立ち去り、経験を排他的に所有する主体へと向かってしまう。
構成において本質は効果として生まれるが、構築ではそのプロセスをコントロールするもの(本質)が先に存在することになる。この点でマッキノンは本質主義者なのである。(pp.83-84)