「連関」としての生(メモ)

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第4節「「世界」と「生」が共同世界を意味するという指示はディルタイが確証している」。ここではディルタイが登場。

「私たちは、世界から生へといかなる意味ももち込むことはしない。意味と意義が人間とその歴史においてはじめて生じるという可能性に対して、私たちは開かれている。だが、個々の人間にあってではない。歴史的な人間としてである」(二九一頁*2)。この綱領的な命題にはふたつの区別がふくまれており、その区別がディルタイの仕事の全体にとって原理的な意義を有することになる。世界と生、個々の人間と歴史的人間、がそれである。(pp.77-78)
レーヴィットによるディルタイの議論の整理を少し追っておくことにする;

ディルタイは生を、直截に「生の統一体どうしの相互作用」と定義する。ディルタイはしたがって、人間的な生を二重の「生の−連関」と解する。つまり生が意味するのは、(1)*3個体的な生の統一体そのものが有する生の連関である。その生の連関がもっとも根源的なもの――「歴史の原細胞」――であるといわれる(二四六頁、二五六頁、二五八頁参照)。伝記と自伝の解釈学的な意義は、そこから生まれる(一九九頁)。生が意味するのはまた、(2)個人が他の生と統一体をとりむすぶ、生の連関である。他のさまざまな生の統一体と、個人は「相互作用」しつつ共に生きている。生の連関は、こうして単数的意義と複数的意義を有していることになる。このふたつの意義は、とはいえ、ことなった主体に配分されているわけではなく、それぞれの主体の「たんなる」生をかたちづくっている。相互作用はこの場合、自然科学的な意味で理解されてはならない。作用と抵抗、能動と受動、阻止されることと促進されることが、その表現なのである。個人が自身のうちだけに引きこもっている場合でも、そのことで個人は、それに先だって基準を与える「生の−諸関係」から逃れることはできない(二三八、二三九頁)。すべての精神科学は人間相互のそうした関係にかかわり、さらにまた外的自然に対する関係とかかわっている(七〇頁)。生は、「人類を包括する連関である」。この「偉大な事実」――その事実は、自明であるとともに、哲学的にはこれまで等閑に付されてきた規定であって、現存在を同時代的な共同相互存在として規定するものにほかならない――は、精神科学の出発点であるばかりではなく、哲学の出発点でもあるべきなのだ(一三一頁)。とはいえ問題は、そうした事実の科学的なとりあつかいの背後にさかのぼって、その事実を始原的な構造において把握することにある。かくして、たとえば日常的には、個人の情態性(Befindlichkeit)は他者との関係によって規定されているといわれる。個人の情態性はたえず、他者によって規定され気分づけられているのである(bestimmt und gestimmt)*4。(pp.78-80)