雑誌は惰性(メモ)

承前*1

雑誌『スタジオボイス』の休刊に触れて、仲俣暁生氏が


ところで、すでに休刊した『Title』や『エスクァイア日本版』もそうだったし、休刊が伝えられたばかりの『スタジオボイス』もそうだし、『ブルータス』でさえそうだが、ほとんどの雑誌が「特集」主義でつくられている。カバー・ストーリーがあるのはどんな雑誌でも当然だけど、ひとつのテーマで雑誌の大半ができている雑誌なんて、「雑」誌じゃない。特集内容によって、号ごとに買われたり買われなかったりする雑誌は、雑誌のようなかたちをしているけど、もはや実質的にはムック(つまり広告入りの本)であり、定期刊行物として受け取るべき理由は、読者の側には存在しない。

中味のよしあしに関係なく(それこそ、読まなくてもいい)毎号買ってくれるような、ロイヤルティの高い読者が一定程度いないかぎり、雑誌として出し続けること(=受け取りつづけること)には意味がないわけで、そのかぎりではいま、日本に本当の雑誌がどのくらいあるのかといえば、かなり疑わしいように思う。「雑誌を買う」という習慣を身体化している(つまり、買うのをやめるだけの運動神経のない)高齢読者が多いであろう『文藝春秋』や『週刊文春』ぐらいしか、男向けの活字系雑誌は存在していないんじゃないか。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090702#p1

と書いていた。
私の過去の経験を思い出しても、やはり雑誌を買い続けることの基本は惰性だよねと思う。しかし、惰性は必ず途切れている。それは何故かというのはわからない。懐具合が寂しくなったからというのは大きいのだろうけど、それは多分決定的なものではないだろう。〈飽きること〉の現象学的考察が必要か。惰性で雑誌を買い続けることをやめること。いちばん最近についてははっきりしている。それは私が日本の外に出たからだ。