Gualtiero Jacopetti

『朝日』の記事;


伊映画監督のヤコペッティさん死去 世界残酷物語


 グァルティエロ・ヤコペッティさん(イタリアの映画監督)が、地元メディアによると17日、ローマ市内の自宅で死去、91歳。

 雑誌記者から映画監督に転じ、1960年代前半に世界の奇習を集めたドキュメンタリー風映画「世界残酷物語」「世界女族物語」などを制作。「モンド映画」と呼ばれる、やらせを多用した残酷な見せ物的映画のジャンルを確立した。(ローマ)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0819/TKY201108190409.html(Via http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20110819

朝日の記事はそっけないので、より詳しくは


DOUGLAS MARTIN “Gualtiero Jacopetti, Maker of ‘Mondo Cane,’ Dies at 91” http://www.nytimes.com/2011/08/19/movies/gualtiero-jacopetti-maker-of-mondo-cane-dies-at-91.html


を読まれることを推奨する。
ヤコペッティの映画というと、『世界残酷物語』とその続篇(だったと思う)を子どもの頃にTVで観たという記憶しかない。『世界残酷物語』の原題が Mondo Cane(犬の世界)だったことに由来する「モンド映画」という言葉を知ったのは、1990年代前半に(今は亡き)雑誌『スタジオボイス*1によって。「モンド映画」というのは(その後論壇に登場した言葉で言えば)オリエンタリズムということと関係がある。さらに、「モンド映画」を、その「やらせ」とか差別性をひっくるめてエンタメとして享受することは或る意味で〈メタ〉の位置に立つことであり、〈ベタ〉に留まって感動したり・怖がったり、或いはその差別性や〈事実捏造〉に真面目に怒りを滾らせたりしている人間を軽く嘲笑するという〈差別の愉しみ〉であるとも」いえるのだろうか。また、文化人類学を初めとする異文化を扱う学問は「モンド映画」的に受容されたり、自らもそういうダーク・サイドに転落してしまう危険性を常に孕んでいるわけだが、ここで重要なことは如何なる習慣も全体的な文脈の中に位置づけない限り奇習・珍習になってしまうということだろう。〈非モテ〉にとって、恋愛は奇習・珍習であり、ラヴ・ストーリーは「モンド映画」だということになるのだろうか。それはそうと、『世界残酷物語』という邦題は、1959年に平凡社から『日本残酷物語』というノンフィクションのシリーズの刊行が開始され、大島渚が『青春残酷物語』という映画を撮るという時代的文脈の中で決定されたのだろう。1960年代前半において「残酷物語」というのは流行語だったのだろう。「モンド」に戻ると、『世界残酷物語』のカメラマンが監督したとかいう『グレート・ハンティング』という映画があって、その売りというか最大の論争点は人間がライオンに食われるシーンだった。それはドキュメントなのか、それとも演技なのか。そういえば、その頃、映画の中で演技ではなくリアルな殺人シーンが使われているという疑惑を売り文句にした『スナッフ』という映画もあった。思うに、これはポルノと平行している。どこまで見せるか問題。というか、「モンド映画」というのは(象徴的な意味において)ポルノなのだ。『グレート・ハンティング』も『スナッフ』も、大島渚による日本初のハードコア映画『愛のコリーダ*2と略同時代の話だ。ポルノの方は篠山紀信宮沢りえの〈ヘア・ヌード〉を経て、現在はネット上でハードコアを当たり前のように見ることができる。また、〈秘境〉にしても、(遅くとも)1980年代以降は川口浩隊長*3のように捏造されるものでしかなくなり、いまや世界で〈秘境〉といえるのは北朝鮮くらいだ(「モンド」の聖地?)。勿論、〈死〉に纏わることのタブーは未だ解かれていないといえるだろうが*4。強引に纏めてしまうと、元祖ヤコペッティの死に当たって、「モンド映画」自体が存立し難くなっていることを確認したということだ。

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まったく関係ないけれど、みすず書房創業者である小尾俊人氏の死。関係ないとはいっても、ヤコペッティとは略同時代人だったわけだ;


みすず書房創業者の小尾俊人さん死去 89歳


 小尾俊人さん(おび・としと=元みすず書房編集代表)が15日、急性虚血性心疾患で死去、89歳。故人の遺志により葬儀はしない。

 1946年、友人2人とみすず書房を創業し、90年に退職するまで編集の責任者を務めた。フランクル「夜と霧」の邦題をつけ、「ロマン・ロラン全集」「現代史資料」の編集などを手がけた。丸山真男ら多くの知識人と親交があった。退職後には、出版人としての体験を振り返った「本が生まれるまで」「昨日と明日の間」などを執筆した。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0817/TKY201108170475.html