語りを巡るメモ幾つか

先ず、


サヴァルタンが語り得ないならば、語れるように教育すればよい。初等・中等教育はもちろんのこと、成人教育も重要な役割を果たす。部落解放運動の中では、成人に対する識字教育が行われてきたが、その中では、生活史の作成がなされることがあった。つまり、読み書き能力の獲得は、自分の置かれている状況を日常的な構えとは違った反省的な視線でとらえ返すための手段でもあるのである。当事者のエンパワーメントという側面が強調されがちであるが、識字教育は、社会的な現実の構成/記述という点でも、大きな可能性を持つ。社会学者が代弁してあげるのではなく、当事者が語ったほうがずっと迫力があるし、影響力も大きいのは当然である。
http://sociology.jugem.jp/?eid=274
「識字」も重要なのだろうけど、それよりも(広い意味での)〈暇〉、(太郎丸氏の言葉で言えば)「余裕」の方が重要だろう。〈暇〉がなければ、(仮令文字を知っていたとしても)「自分の置かれている状況を日常的な構えとは違った反省的な視線でとらえ返す」ことはできない。また、「識字教育」を受けるにも〈暇〉が必要で、だからこそ少なからぬ社会の貧しい人々にとって、日常性から切り離された刑務所とか軍隊という場が「識字」の機会として機能しているのであろう。また、「識字」とエクリチュールは直接的には結びつかない。エクリチュールは「感じるを感じるとか味わうを味わうに似たメタ的な所作」*1であるが、(もしかして詭弁に聞こえるかも知れないが)文字を知らなくても〈書く〉ことはできる。勿論、多大な困難を伴って。
ところで、「社会学者が代弁してあげる」という表現。一般に科学的概念は二次的構成物でしかないということがあるのだが、そもそも「社会学者」の仕事は(それが実証的である限り)「当事者」(インフォーマント)の語りに基づいてしか成立しないのでは? 「社会学者」は「当事者」を「代弁」するというよりも、「当事者」の「語り」を註釈し、翻訳する。
さて、これから派生して、幾つか。ただ、ここでは「サバルタン*2がどうしたこうしたということには言及しない。

サバルタン(「自らを語る」機会を奪われている者)が、教育によって識字を与えられたらどうなるか。その何人かは自分や「同胞」の不幸な境遇を語りだし、その何人かは「抵抗」としての語りを紡ぎ始めるだろう。しかし同時に、少なくない数の元サバルタンが、「語れる」にもかかわらず語ることを選び取らないはずだ。もはや語るだけのリアリティが元サバルタンにはないのである。



識字能力によって、元サバルタンが今まで見てきた「社会的な現実の構成/記述」を可能にするということはありえる。それが識字能力の強みであり、識字教育の意義である。しかし同時に、識字能力の「獲得」によって、元サバルタンの「今ここ」の「社会的な現実」も構成される。リテラトな元サバルタンに見えている「世界」は、イリテラトだった頃の「世界」とは確実に違う。識字能力の「すばらしさ」を内面化した今では、あのころ一体何が「語りたかった」のか思い出せない。



それこそが「平和的な解決」だと言えなくもない。上の「いじめられっ子の僕」などはいい例だ。それでも、と思う。依然、気持ち悪さが残る。それでいいのかと。お前は殴られた分だけ殴り返す権利があるんじゃないかと。むろん、法的な意味ではなく。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090408/1239134243

先ず「ボクシング」の喩えは適当ではないということを申し上げておく。その上で、シュッツのAufbauから次のパッセージをメモしておきたくなる;

ところで私は体験した体験に注意を向ける〈注意作用〉を遂行することによって、私は反省作用において純粋持続の流れから、その流れの中で素朴に生を送ることから外に出るのである。その体験は把握され、区別され、際立たされ、境界づけられる。位相的に体験する中でその持続経過の方向において構成された当の体験が、今度は構成された体験として眼指に捉えられるのである。位相的に築き上げられたものが、今度は反省もしくは再生(素朴な把握による)いずれかの注意によって、「既成の」体験として他のあらゆる体験から鋭く境界づけられるようになるのである。なぜなら〈注意作用〉(中略)は、それが反省的性質のものであるか再生的性質のものであるかを問わず、1つの流れ去った体験、1つの生成し去った体験、1つの成し遂げられた体験、要するに1つの過去の体験を前提にしているからである。
したがって私たちは、その経過を体験の最中で境界なく、相互に移行し合っている諸体験と、しっかり境界づけられているが、流れ去った体験とを対比しなければならない。この後者の体験は、素朴な生を送るという仕方ではなく、むしろ注意作用という1作用において把握される。これは私たちの主題にとってきわめて重要である。なぜなら有意味的体験の概念は、意味の述定される体験が常に明確に区別されたものであることを前提にしているので、有意味性は専ら過去の体験だけに、つまり、回想する眼指に既成の生成し去ったものとして提供される体験だけに承認されることは、明らかであるからである。(佐藤嘉一訳、第2章「各自の持続における有意味的体験の構成」、pp.84-85)
社会的世界の意味構成―理解社会学入門

社会的世界の意味構成―理解社会学入門

サバルタン」であろうがなかろうが、「有意味」なものとして語ることができるのは、「過去の体験」、「今ここ」には既にないものでしかない。
ところで、「あのころ一体何が「語りたかった」のか思い出せない」。私たちは能動的に思い出すことができるのか。岡真理さん(『記憶/物語』)が論じているように、私が記憶を所有しているのではなく寧ろ記憶が私を所有しているのではないか。
記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

関連して、

昨日の僕と今日の僕、2人は本当に同じ人物なのだろうか。少なくとも、教育を受けた元サバルタンたちの中には、過去の「サバルタンとしての私」とは「別人」、という人もいるということになる。彼らの「経験」は、文字の取得という過程を経て、不可避的に彼ら自身から離れていく。サバルタンの私は、つねに識字を獲得した「元サバルタンとしての私」によって、「代弁される」ほかないのである。結果、やはり「サバルタンは語れない」ということになる。

いやもしかすると、語り、抵抗するサバルタンたちも、いやひいては言葉の海にとらわれている「人間」はみな、過去の自分の代弁者に過ぎないのかもしれない。

言葉は表現手段だ。その言葉を獲得によって可能になったことも多い。だがしかし、実はその表現手段そのものに、「生の経験」をスクリーニングしてしまう機能が不可避的に内包されている。だから、自然主義文学は「事物をありのままに記す」という無限遠点への挑戦なのだととらえるすることだってできる。実際に「ありのままを話す」というのは夢物語に近く、それを実現させるにはそれこそ映画「ブレインストーム」のようなSFの世界になってしまうだろう。
http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090408/1239202003

もメモしておく。
なお、トラウマ(脱心理学化して言えば、ライフ・ヒストリーへの統合が困難であること)の問題も視野に入れるべきだろうけど、これについては取り敢えずhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090323/1237790007を。