「片側」

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

堀江敏幸『河岸忘日抄』から;


蒐集し、整序した人間の意図的な操作がからんでいて、真実の声なのかどうか完全な保証は与えられていない回想の数々。問題は、嘘かまことかという以前に、ひとり語りがかならずしもそのひとの人生を描き得ないという、考えてみればじつにあたりまえの事実のほうにある。一人称で統一された語りは、虚構のなかでのみその真実を維持しうる。なにをどう語ろうと、時間の順序をどう替えようと、それがひとつの流れのなかで息づいている読み手もしくは聞き手が感じるならば、それは正真正銘の「ほんとう」に、記録や事実とは関係のない語りの地平での「ほんとう」になる。だが、実人生のなかの「私」の像は、あくまでも片側に、一面にすぎない。語っている人間のとなりに、正面に、すぐうしろに、あるいは離れたところに誰かがいてその言葉に耳を傾け、立ち居ふるまいを観察し、友人やそのまた友人たちからの又聞きをぜんぶひっくるめてつくりあげた、ずれやひびわれや傷があるふぞろいでいびつな像こそが「ほんとう」に近いものなのである。つまり、けっして焦点があわず、真実かどうかわからない姿こそがもっとも正しいのだ。しかも厄介なことに、そうした多重露出の像は本人に見えない。彼の横顔は、船上生活者の少女や大家や郵便配達夫や枕木さんたちからの、「それぞれの片側」を集積してはじめてほんのりと輪郭をむすぶものでしかなく、逆にまた、彼を見ている人間たちの真実も、さまざまな一面のあつまりでしかない。(後略)(pp.206-207)
そういえば、浅野智彦さんの『自己への物語論的接近』を採り上げているエントリーを偶々見つける*1。その中で、気になった一節があったので、ちょっとメモしてみる。「人間が「物語的」な存在であるということは、「共同体的」かつ「歴史的」な存在であるということと同じなのである」として、

「自己物語」において他者が果たしている役割には、著者によれば次のようなものが挙げられる。「自己」が自分自身を外側から見るための(語り手の)視点を提供すること。自己の「現在」と「過去」が確かにつながっていることの証人になること。自己が記憶していない(例えば幼少時の)エピソードを語って、物語に起源を与えること。例外的な出来事や解釈を吹き込んで、「自己物語」に変化のきっかけを与えること。物語を承認したり否定したりあるいは修正したりする編集作業に参加することで、暗黙裡に、物語を「すでにそこにあるテクスト」として認めること。そして、聴き手として物語に納得を示すことによって、物語の宙づり状態を一時的に覆い隠すこと。


 これらは、「自己」の存在に現実味を持って生きるためには、「共同体」内のコミュニケーションに包摂されていなければならないということを意味している。そして、本書の中ではほとんど主題化されてはいないのだが、共同体のコミュニケーションもそれ自体が物語であって、そこには「歴史」というものが成立しているということが重要だ。

 「共同体の歴史」という物語を考えたとき、物語を承認したり物語に登場したりする「他者」には、「死者」すらも含まれるのではないかと思われる。もちろん、物語のスケールにも限度はある――語り手は、あらゆることを語りつくす前に死ぬのだから――だろうから、「他者」の範囲を広げすぎても仕方がない。しかし死者たちだって多かれ少なかれ言葉を残しているのであって、彼らの語った「物語」からあまりにも大きく隔たった「自己物語」を、我々は組立てることができないのではないか。(彼らが納得しないだろうと思われるような物語に、我々はリアリティを感じられないのではないかということ。)

ガダマーの解釈学やラカン精神分析(父の名?)にも接続可能な問題意識ではあろう。たしかに、私は「死者」の「物語」によっても構成されている。何しろ、私が私を「物語」するために使用する言語自体が〈死者の言葉〉なのだ。私は既に言語的に構成された(「物語」された)世界に生まれ落ちるのであって、つまり世界は「死者」も含む先代によって既に構成されていることを、私は自明なことと考えている。ただ、私は、そして私が生きる世界は、(生者であれ死者であれ)私と「物語」を共有する(と私が思い込んでいる)他者によって構成されるだけでは済まない。それだけだと、世界は個人的ならぬ集合的な主観的構成物になる。世界が世界として存立するためには、私と「物語」を共有しないであろう他者による(上に引いた堀江氏の小説の言葉を使えば)「片側」が填め込まれている必要がある。さらに、私にせよ(生者であれ死者であれ)他者にせよ、(原理的には)無数の「共同体」に包摂されているということもある。
自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ