「国民性」ではなく

http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/04549e7f7cf7672ef21e3b1599f8a8c5(Via http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090114

曰く、


私には行き過ぎた「派遣村」叩きは単に不人情なだけでなく不合理としか思えない。あからさまな冷酷さは必ず反発を生み、失うもののない弱者の捨て鉢な復讐を生む。
それくらいのことは少し考えれば誰にでもわかるはずなのに、なぜこんなに「良識ある一般人」が弱者に冷たいのか、意地悪なのか。どうしてこれほどいじましいのか、不寛容なのか。派遣村を叩いている個人の「自己責任」を問うてもそれこそ波平の頭(ほとんど不毛)なので、日本人の国民性から考えてみる。(後略)

そんなことはどうでもいいのだが、山岸教授によれば日本人が他者を信頼する傾向は調査した国の中でもっとも低い部類に入るそうである。端的に言えば日本人は人を見たら泥棒と思い、世間の人たちの大部分は身勝手だと信じている。信頼よりも疑い、優しさよりも警戒感、希望よりも絶望が勝っている。
私とて日本が好きな日本人なので、こんな調査結果は信じたくない。「心優しい日本人」像にしがみつきたい。たぶん調査に答えた人たちは「なんだか難しくて厳しい調査だな」と心を閉ざし、「お人よしと見くびられたくない」と突っ張ったのだろう。だからこんなに不信感と利己主義が強く表れたのだ。不信感が強く出たのは本来の優しさの反動だ、きっとそうに違いない。
…と信じたいのだが、諸外国の中で日本だけそのような影響が強く現れたという根拠は何もない。
山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080814/1218687009でも言及した。そこで、この本は「所謂〈日本的経営〉というか戦後日本的資本主義の危機を踏まえて書かれている」とも書いた。山岸氏のいう「安心社会」とはぶっちゃけていうと、〈身内との安定した関係〉に基礎づけられた社会で、「信頼社会」とはルールとか人間性といった抽象的な原理の権威に基礎づけられた社会ということになる。前者から後者への変容は近代化(或いは社会進歩一般)の鉄則だとされてきたし、1980年代以来、(新自由主義者を含む)リベラルが〈日本的経営〉とかを批判してきたのは、そうした図式を踏まえてのこと。しかし、実際には(戦後日本ということだけに絞っても)、近代化による「安心社会」の危機は「信頼社会」への移行というよりは〈身内〉の再構築という仕方で対処されてきた面が大きい。大企業の従業員の場合は、〈日本的経営〉の企業や労働組合が新たな〈身内〉ということになったし、そこから零れ落ちた人々も例えば創価学会とか民青とか若い根っこの会とかによって拾われたわけだ。ところが、1970年代後半以来の世界的な新自由主義の波はこのような戦後的〈身内〉というか「安心社会」を危機に陥れてしまった。また、学校を出て就職を拒まれた人だと、実際の家族以外の〈身内〉を一度も持つことができないということにもなる。そういうことなのであって、「国民性」という〈本質〉を構築してしまう必要はない。因みに創価学会のムラ的性格については、取り敢えず島田裕巳創価学会』をマークしておく。
安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

創価学会 (新潮新書)

創価学会 (新潮新書)

伊東順子『病としての韓国ナショナリズム』には、韓国では1990年代のIMF危機の過程で血縁関係が再度重視され始めたと書かれていた。つまり、銀行は金を貸してくれなかったけど親戚は貸してくれた。日本ではどうなのか。
病としての韓国ナショナリズム (新書y)

病としての韓国ナショナリズム (新書y)

ところで、同じ「玄倉川」さんの

だが私は、世の中というのはむしろ「入学試験」に近いものだと思っている。どれほど努力しても、一定の点数以上を取っても、「定員」が満たされれば他の受験者は不合格になる。ここでは仮に定員ではなくて「偏差値50」を合格基準としよう。
「偏差値50以下はすべて自己責任」という批判に何か意味があるだろうか。「個人の成績が悪いのは自己責任」というのは、まあ正しいとしよう(生まれつきの能力・性格や環境の問題を本当は無視できないが)。だが集団として「偏差値50以下」を批判するのは無茶苦茶な話である。すべての人間が努力してベストを尽くしても、全員が偏差値50を上回ることはできない。平均以上が威張れるのは平均以下があってこそだ。偏差値50以下があるから偏差値50以上が存在できる。「偏差値50以下」を全否定するのは、頭が足の存在を否定するようなものだ。
経済格差、経済的弱者の存在というのも「偏差値50以下」と同じである。派遣村という「鳥島」に漂着した人たちはおしなべて経済的能力の偏差値が低いのかもしれないが(私はそうは思っていない)、だからといって「彼らの存在自体が間違っている」と考えるのはおかしい。「経済弱者はクズ」「弱者が落ちぶれて死ぬのは自己責任」というのは強者の奢り、夜郎自大の自己満足、愚かな錯覚でしかない。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/6542ea4c75123b94d06cbdd3d4d6e3e4
というのはけっこう納得させるものがある。