「ダンス」(メモ)

批評空間 (第2期第22号)

批評空間 (第2期第22号)

Alain Badiou「思考のメタファーとしてのダンス」(守中高明訳)『批評空間』II-22、1999 pp.132-144


少し抜き書き;


ニーチェの目にとって、ダンスの反対物とはいったい何か? それはドイツ、忌まわしきドイツのことであり、それについて彼はつぎのような定義を与えている――「服従と健脚」と。この忌まわしきドイツの本質とは、軍隊の行進、つまり一列に並んだ鉄槌を打ち降ろすような身体であり、隷属したよく響く身体であるところの軍隊の行進である。すなわち、踏みならされる拍子の身体。それに対して、ダンスとは空気のようで乱れた身体、垂直的な身体である。それは、鉄槌を打ち降ろすような身体ではまったくなく、「つまさきで立つ」身体、地面をまるでそれが雲であるかのように突き刺す身体なのだ。そして、何よりもまず、それは沈黙した身体であり、それが対立しているのは、みずからに固有な鈍重な打擲の雷鳴が事後的に規定するあの身体、軍隊の行進の身体というあの身体に対してである。結局のところ、ダンスはニーチェにとって垂直的思考を、自分自身の高さへ向けて張りつめた思考を指し示している。これは、明らかに肯定というテーマに結びついており、この肯定は、ニーチェにとって、太陽が天頂にあるときの「大いなる〈正午〉」のイマージュにおいて捉えられるものである。ダンスとは、みずからの正午に捧げられた身体のことなのである。(p.134)
その一方で、

もちろん、ダンスは、生成としての、すなわち能動的な力としての思考というニーチェの観念に呼応するものである。だが、この生成とは、唯一無二の肯定的内面性がそこにおいて解放される類いのものである。運動とは移動ではないし、変形でもない。それは、一つの肯定の永遠の唯一性が横断しかつ支える軌跡なのである。したがって、ダンスが指し示しているのは、とりわけ自己の外部の空間へ投影されることへのではなく、むしろみずからを抑制する肯定的な引力の中に捉えられることへの、身体的衝迫の能力である。(略)ダンスとは、さまざまな運動の顕示やそれらの運動を外部へ素描する際のすばやさを超えて、それらの抑制の力を明らかにするところのものなのだ。なるほど、人が抑制の力を顕示することになるのは運動そのものにおいてのみである。だが、重要なのは、その抑制の力強い読み取り可能性なのである。(ibid.)

ダンスとは、解放された身体的衝迫や身体の野性のエネルギーのことではまったくない。それは反対に、一つの衝迫への不服従の身体的顕示なのだ。ダンスは、いかにして衝迫が運動の中で実効性なきものにされ得るかを、したがって問題なのは服従ではなく抑制であるということを、顕示する。ダンスとは洗練としての思考なのである。われわれは、身体の原初的エクスタシーあるいは忘却をもたらす繰り返しとしてのダンスといった教義すべての対蹠点にいる。ダンスは軽やかで鋭敏な思考をメタファー化するが、それはまさしく、ダンスが運動に内在する抑制を顕示するから、そしてそれゆえに身体の自然発生的な卑しさ*1と対立するからである。(p.135)
さらに、「ダンス」と「音楽」の対立(pp.136-137)、「ダンス」と「演劇」との対立(p.137ff.)。

*1:「卑しさとは、人が反応するべく強いられていること」(p.135)。