「理不尽」に決まっている

承前*1

「『労働しない(と思われている)人嫌い』ってそんなに理不尽なのかな?」http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080911/p1


YES, of course!
さらに、私が「?を10個くらいつけておく」としたhttp://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_48ae.htmlに対して、「重要な問題として掘り下げて考える必要があると思います」とまでいっている。たんに「現代社会において「労働」にある種の社会性を生む役割を与える」こと*2を肯定するだけでなく、「働いて社会に参加しているという共通性」以外に「連帯の核となるものはない」と言い切っちゃっているわけですが。この連帯において、「働いて社会に参加して」いない人、例えば専業主婦(主夫)や障碍者や老人などは、論理的な帰結として、「連帯の核」の外、参加させてもらえるとしても、常に〈準会員〉にとどまらざるを得ないということになる。そんなの「理不尽」に決まっている。さらに、ここで問題にされているのは好き嫌いという準位だ。
問題になっているのは所謂賃労働なのだろう。実は或る振る舞いが賃労働として成立するかどうかは全く本質的な問題ではないと思う。ところで、(あくまでも)vita activaの一様式としての労働*3はなくなるということはないと思う。それは私たちが身体として存在しているからだ。身体として存在している以上、私は〈自己へのケア〉から逃れることはできない。部屋に埃が溜まって気持ち悪いので掃除をする。掃除をしていると、腹が減ってきたので何か料理をする。料理をしていたら服が油臭くなった。後で図書館に行こうと思っても、こんな服を着ていたら追い出されてしまう。だから、服を脱いで洗濯機にぶち込む。労働の基本はこのような〈自己へのケア〉である。それが社会化(或いは賃労働化)される根拠は、先ず私の生の初期と後期において私が〈自己へのケア〉ができず、他人に依存せざるを得ないということにあるのだろう。さて、そもそもが〈自己へのケア〉を基本とするものなので、労働には特有の快楽がある*4。その快楽というのは「キネステーゼ」的な自由*5とも関係があるように思う。「労働しない(と思われている)人」を(逆恨み的に)嫌うよりも、現代社会において〈労働の快楽〉が損ねられていないか、或いは如何にして〈労働の快楽〉を恢復するのかを考えた方が面白いのではないか。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070111/1168540726 *6

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080912/1221185467

*2:これについて全面的に反対する人はまずいないんじゃないか。

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080407/1207591421

*4:See http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080910#p1

*5:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080723/1216835361 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080724/1216907819

*6:ここでは労働が孕む快楽という論点は見逃してしまった。