mentionとuseとか

承前*1


たとえば(最近ちょっと話題になった)「人を殺す自由」ということですが、誰かを殺そうと「考えること」は、当然自由です(よね?)。というかエスパーでもない限り、誰が何を考えているか、など、分かるはずありませんし。

いっぽう、誰かを殺してしまうこと、は、自由かどうかはともかく、これも当然アウトです。

しかしこの中間(なのか?)、「誰々を殺そう」と何かに書くことは、果たして自由なのか、どうか。

いうまでもなく、最近の風潮だと、ブログ(に書く人はあまり聞いたことないですが)や掲示板に書いたら、どうやらアウトっぽいです。

しかし、日記やチラシの裏や、そんなのに書くのは、どうなのか。

あるいは、あからさまな差別をブログに書くことは、それだけで、差別を行ったことと同じ、と見なされるのか。

あるいはあるいは、差別的な描写のある小説を書いたら、その作者は「差別主義者」になってしまうのか。

等々。
http://d.hatena.ne.jp/sean97/20080728/p2

勿論、名指された「誰々」本人にとっては愉快なことではなく、何かけじめをつけたくなるのは当然であるかとも思う。しかし、最近のは、加藤智大のこともあって、世間(とそのプレッシャーを受けた警察当局)が神経過敏になっているということもあるんじゃないか。実行可能性という壁もあるわけだし(但し、〈誰でも良かった〉ということだと、その壁が低くなることも事実ですが)。
また、ふつうの(特定の事柄について権限もない)人が「差別」を行うというのは、「差別的な」言動という仕方以外では不可能だろうと思います。また、「差別的な描写のある小説」ということですが、言語論的には言及(mention)と使用(use)の区別があるだろうと思います。さらに、行為と存在論的地位(ontological status)という問題も出てくる。例えば、昔々から〈同性愛的な行為〉というのは綿々と存在し続けたのに、〈同性愛者〉という人格を本質的に規定してしまうかのようなカテゴリーは19世紀までなかったとか。