「コーヒー店永遠に在り秋の雨」

感光生活 (ちくま文庫)

感光生活 (ちくま文庫)

小池昌代「げんじつ荘」(in 『感光生活』)から;


よりこさんの家は、小田急線の千歳船橋というところにある。この駅に降り立つのは、ずいぶんひさしぶりだ。駅前にできたコンビニエンスストアが、この町をありきたりの顔つきに変えてしまっていた。それでも裏通りに足を踏み入れると、花屋、写真館、銀行(名称は変わっていたけれど)、八百屋など、なつかしい店が変わらずにある。わたしは、ふと、永田耕衣という俳人の句を思い出した。


    コーヒー店永遠に在り秋の雨


変わってしまったように見えて、この町のどこかにも、永遠に変わらないコーヒー店がある。そのなかで、永遠に年をとらないマスターが、永遠に豆をひいているかもしれない。ふと見た者の目には、ありふれたコーヒー店。でも、一歩、ドアを開けて足を踏み入れれば、そこは「時」が、奇妙にゆがんでいる空間である。飴のようにのびていく過去と未来のあいだで、泉のようにあふれてやまない現在。その「いま」は永遠に通じていて……。
そんなことを夢想しながら歩いていると、花屋の前を通りかかった。とっさに、そうだ、花だと思った。きょうはよりこさんの出産祝いに、思い切り、派手な花を買っていこう。
店頭には、花屋にはどことなく不釣合いな感じのおじさんがいて、いらっしゃい、としぶい声をかけてくれた。がっしりした骨太の初老の男性である。袖をまくりあげたたくましい腕と手が、チューリップや薔薇を、バケツからついと抜いたり、束ねたりしている。壊れ物を扱うような丁寧な手つきが、妙になまめかしく目にうつる。おじさんの無骨な手が添えられた花々は、なぜかみだらに、なまめいて見えた。わたしがじっと見ている視線に気が付いたのだろうか、おじさんが、とっさに、「とげで傷ついたり、水を扱うからね、ヤワな手にゃあ、花屋はつとまらないよ」と言った。内心少しびっくりしていると、鶴田浩二みたいにまゆげを下げて、困ったような笑顔を向けた。結局、黄色のチューリップを、十五本、包んでもらうことにした。(pp.82-83)

最近、ノスタルジーというのは評判が悪い。しかし、ノスタルジーがなければこの世は闇だ。また、引用文の後半から、最近読んだ、「世界にひとつだけの花」を批判している某エントリー*1を思い出した。
さて、別の短編(「島と鳥と女」)に、「詩」を書くことについて「わたし」が語っている箇所がある。勿論、これは詩人としての小池昌代さんが語っているのではなく、小説の登場人物=語り手が語っているわけだが。

詩は書こうとすれば、いくらでもかたちにすることはできたが、自分で書きながら、びっくりするようなことは、もう頻繁には起こらなかった。
詩を書き始めて二十年がたっていた。それでもわたしは詩を書くことをやめられなかった。まだ、詩で何かをやり残しているという思いが、また一方にあったからだ。
詩を書く動機は、わたしの場合、ごくささやかなものである。日常のなかの、何らかの現象につきあたったとき、小さな驚きや発見、違和感のようなものが生まれ、それがわたしのなかに、言葉にしたいという強い欲望をもたらす。何故、自分が、そのとき、そうして驚いたり違和感を感じたのかは、自分ではわからない。だから面白い。
しかし結果としてできあがった作品には、いつも何かが足りないのだった。この足りなさは、わたしの才能不足だけから来ているのか、それとも詩という形式の限界なのかは、よくわからなかった。ともかく、わたしは、自分のなかにある、漠然とした詩というものの形式を破らばければ、もう一歩も前へ、進めないような気持ちになっていた。
日々、生活の糧を稼ぐ仕事をやりくりしながら、わたしの胸のなかには、こうしていつも詩への愛情とみれんと挑戦が、複雑に入り組み、青い火のように燃えていたのだ。(pp.27-28)
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080105/1199511204 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080108/1199795624

ところで、最近吉田篤弘『フィンガーボウルの話のつづき』を読了したが、それについては後日。

フィンガーボウルの話のつづき (新潮文庫)

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