秋山駿*1「中原ならどう読む?」『中原中也記念館館報』5、p.2、2000
曰く、
どだい17歳で中原中也詩集を読んだ頃は、私のみならず多くの人が、なかはら・なかやと呼んでいた。韻を踏んでいる(?)、さすが詩人は、名前まで洒落ているね、と感心し合ったものだ。いくら大岡昇平さんに後になってから、中原ちゅうや、と呼ぶのだと教えられても、なかなかピンとこない。
大岡さんがあるとき、中原がちゃんと振り仮名を振っておけばいいのに、「魚」だって、お前、ウオと読むのか、サカナと読むのか、分かりゃしねえ、とぶつぶつ文句を言っていられたことが、痛く思い出された。
「朝の歌」(『山羊の歌』)に、
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
とあるが、その「戸の隙」を、私はずっと、戸のひま、と読んでいた。朗読CDのとき、待てよと思って、佐々木幹郎編『山羊の歌』(角川文庫クラシックス)に収められている、諸井三郎作曲の楽譜を見ると、そこは、トノスキ(戸のすき)になっていた。ああそうだったのか、と思わず赤面したが、私の内部ではもう改変はきかない。
「中原中也」*2を「なかはら・なかや」と念む発想はなかったし、少なくとも周りには「なかや」と念む人はいなかった。たしかに「 韻を踏んでいる」けれど。
私の中原中也評伝の本のタイトルは、「知れざる炎」であるが、いまでもあちこちでよく、知られざる炎、と誤記されている。日本の話法ではそれが正しいらしい。しかし、その一句は「悲しき朝」(『山羊の歌』)からいただいたもので、その詩句の一行は、
知れざる炎、空にゆき!
である。(略)知れざる、と、知られざる、とでは、言葉の背後にある精神のベクトルが、ぜんぜん違う。知られざる、では、炎は胸の裡にあるが、知れざる、は、炎を一剣して空へと抛ったのである。それが中原の語感・語法の鋭さであった。この場合、日本の話法の方がくだらないのである。
もっとも、この詩の末尾は、
われかくに手を拍く⋯⋯
となっていて、その「拍く」は、どこの何を見ても、たたく、と読まれているが、私はそれが気に入らない。どこをどう読んでも、この詩の最後で、手をたたく中原のイメージなど、私には浮かんでこない。では、拍くをどう読んだらよいのか、私は長いあいだ読み方を探している。
- 作者:中原 中也
- 発売日: 1981/06/16
- メディア: 文庫
*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131004/1380863393 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131005/1380933911 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/03/11/212254
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070814/1187112368 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070928/1190960267 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091031/1256921318 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170511/1494472991 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180626/1529984303 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/29/124221 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/10/04/015612