田植えと養蚕(メモ)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

靖国史観―幕末維新という深淵 (ちくま新書)

小島毅靖国史観』*1からのメモ。


そもそも、古代日本には籍田も先蚕もなかった。
(略)律令制度導入時に、当時の世界基準(唐の制度)にあわせてそのての儀礼を日本でも実施しようとする動きは一部にあったが、定着しなかった。
天皇みずから田植えをしたり、皇后みずから蚕を育てたりなどといったことを、朝廷では行っていなかった。まして平安時代にケガレの観念が強くなると、天皇の身体が地面に直接触れることを忌避するようになるから、田植えなどできるはずがないし、養蚕は殺生(さなぎを煮殺す)を目的とするわけだから皇后が率先しておこなうこともない。中国儒教が説く王権祭祀は、日本には根づかなかった。
ただ、江戸時代になると、儒教にかぶれた一部の大名たちが、自分のところで籍田・先蚕のまねごとを始める。水戸藩もそうであった。
今も小石川後楽園には藩主がみずから民百姓の労苦を経験するための施設として、小規模ながら田圃の区画が作られている。水戸藩主は江戸常駐で、常陸本国の領地の田畑を実見する機会はなかった。
後楽園の南西二キロメートルのところにある皇居で、私たちが現在目にする宮中儀礼[としての田植え]は[会沢]正志斎らの流れを汲む儒教神道学者たちが明治になってからこしらえた「創られた伝統」にすぎない。(pp.47-49)