「反省」の「場」についての誤解

承前*1

「「反省」ということを司法というシステムに期待することの妥当性が問われなければならないだろう」、「「反省」が(公的に)遂行される場が「司法」システムであっていいのだろうか」と書いた。


実際、大きなことであれ、小さなことであれ、何かをしでかしたならば、そのこと自体の取り返しはつかない。与えた損害に対して経済的補償をしたりといったように、取り返しがつかないことの代わりの何かをすることはある。しかし、そのように「代わり」が要請されること自体が、取り返しがつかないことを繰り返し証明している。重ねて言うが、そのこと自体の取り返しなど、絶対につかない。──私たちの多くは、少なくとも小さなことでは、何かをしでかしてきたことがあるだろう。そのときに、「ごめんなさい」と謝ったこともあるだろう。しかし、謝ったことでは、そのことは終わっていないのだ。反省とは、終わるものではないのだ。大仰な言い方をすれば、死ぬまで、そのしでかしたことの重みの中で生きること、これこそが反省である。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080508/p1

(前略)反省するとは、しでかしたことの取り返しのつかなさを知ることである。償っても償っても終わりがない、償いきることができないことを知ることである。──彼が、心の中で、自分のしでかしたことの重大さを理解し、それをどれほど後悔したとしても、死んだ人は戻ってこない。取り返しはつかない。そのことに打ちのめされる。打ちのめされ続ける。反省するとは、反省することの無意味さを知ることでもある。

 ゆえに、死刑にしないことは、死刑よりも過酷な刑でありうる。「死刑より過酷な刑」について、「その納得できる具体例は聞いたことがない」という人もあったけれど、よくよく考えてもらいたい。先に述べたように、反省するとは、反省を生きることである。その一瞬一瞬は、反省を覆そうとする己の生のありように抗う生であり、そのように抗って維持される反省が無意味であることを思い知る生である。

というのを読んで、前回私がmojimojiさんの意図を些か誤解していたのではないかということに気付いたので、取敢えずその旨を報告しておく。