世界の外ではコミュニケーションできない


言語権という議論も、人間にとって言語は普遍的なものだという、おろかで、ふざけた発想にたって、人権という、うつくしい議論をならべる。手話が言語形態のひとつであること、日本手話がフランス語や日本語のように、言語であることが きちんと認識されていない現状では、言語権という議論は、たしかに効力をもつ。

けれども、かんがえてみてほしい。


言語障害は ありえても、コミュニケーションに障害はありえない。


なぜなら、言語とは、多数派の おもちゃであるからだ。ある少数派にとっては、言語など、なんの意味をも もちはしない。認識さえされない。どうでも いいからだ。

いつか、100万円の現金を手にする機会があれば、イヌに100万円をみせびらかしてみてほしい。どうだ、うらやましいだろう?と。

100万円の札束など、紙きれにすぎない。けれども、経済という体制のなかでは たしかに機能し、わたしや あなたの「必要」を満足させる。けれども、イヌに みせびらかしても、おたがいにとって、なんの意味もないことくらいは、わかっているはずだ。

人間の多数派は言語に あまりにも価値づけし、あたりまえだと おもい、それをたのしんでいる。言語など、オトだのウゴキだのカタチだのでしかない、つまり、その価値を共有しないものにとっては なんの意味もない。けれども、人間の多数派は、それが わからない。気づくことが できない。わたしはそれを、言語フェチシズムと よぼう。言語は おもちゃなのだ。多数派の おもちゃなのだ。

言語という制度の そとでは、言語など、なんの役にも たたない。なんの意味もない。なんの価値もない。なんでもない。

けれども、人間の多数派は、人間はすべて、なんらかの「言語」という制度のなかで いきていると、信じて うたがわない。信じて恥じない。

これが言語帝国主義でなくて、なにが言語帝国主義であるのか。
http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/a17b10cc7a069a197d8b333385fea7e7

この言説には何か重要なものが欠落しているように思われる。この筆者は「社会言語学は「コミュニケーション研究」にならなければならない」とも言っているように、「言語」を「コミュニケーション」の手段に還元しているようだ。それはマネーという例を持ち出していることでも明らかだろう。マネーは言語ではないコミュニケーションのメディアであり、「言語」が通じなくても売買というコミュニケーションはできるということを示せば、「言語」を数あるコミュニケーションのメディア或いは手段として相対化することは可能だろう。また、この人が「言語フェチシズム」という言葉を病理的な状態を表すために使用している意味も理解することができる。通常「フェチシズム」というのは(ノーマルであると考えられている)全体としての欲望の対象に対してせいぜい換喩的な関係しかもたない部分に固着した欲望のあり方を貶めていう言い方であるからだ。
勿論、「言語」を「コミュニケーション」との関係で考察すること、「コミュニケーション」との関係で相対化することに反対なのではない。私が異議を唱えるのは、「言語」を「コミュニケーション」の手段に還元してしまうことである。そうすることによって、それには還元できない(しかしながら、理論的にはそれに先行しているかもしれない)重要な次元が隠蔽されてしまうのではないかと危惧する。それは端的に言って、私が世界に住まうということに関係している。世界の中にある(いる)諸々の存在者たちはそれぞれ特定の〈何〉として存在し、そのように私に現われ、そのような存在者たちがそのように特定の〈何〉として私に現われた世界を私は生きている。もし世界がそのようでなければ、世界はとにかく〈ある〉という(レヴィナスならばil y aと呼ぶであろう)状態であり、そのような(世界といえるのかどうかも怪しい)世界において、私がある(いる)余地があるかどうかも疑問である。世界は常に既に分節化された、或いは類型化された仕方でもって、私に現われている。さて、言語というものは通常この分節化或いは類型化という所作を行うと考えられていないだろうか。それならば、のっぺらぼうの〈ある〉を特定の〈何〉として分節化或いは類型化して、世界を世界として私に差し出す何ものかを言語として考えて、何か不都合があるのだろうか。言いたいのは、私が分節化或いは類型化された世界を生きる以上、私は(仮令私が「知的障害者」であっても)何らかの言語の制約下にあるということだ。勿論、この分節化或いは類型化が天から降ってきたものでない以上、それは「制度」であろう(勿論、それは「国語」とかとは違った準位においてであろうが)。因みに、或る物事が「制度」であるのはどういうことかといえば、それが社会的に構成され(socially constituted)、社会的に裁可されている(socially sanctioned)ということだろう。
ところで、上に引用した言説の筆者、あべやすし氏は田中克彦にいちゃんもんをつけているのだが、寧ろ現在の言語学では主流派に位置するであろう(例えばチョムスキーの系譜を引く)認知言語学の人はどのようにコメントするのか。それも愉しみではある。
因みに、ここで私は(今いい加減に目を通している)斎藤慶典『哲学がはじまるとき』をノリのレヴェルで参照していることは自白しておかなければならない。
哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

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