文化を巡るメモ(まだ判断は付かない)

ちょっと衝撃的であったので、以下の言説を切り取っておく;


脱線するが最後に少しだけ。現在、多数派日本人の間でも「日本文化」の再発見がブームである。音楽に限定して言えば、三味線や島唄、あと純邦楽など、J‐POPメガヒット時代には考えられないようなCDがチャートに入ったりする。そして「和風」ソングを聴いて「国際化のこれからは、むしろ、日本のことをもっと知らないとね…」みたいなことを言うOLがいたりいなかったりする(ごめん、個人的な鬱憤を入れて!)。

こうした再発見型「日本通」の方々は、もっとも重大な矛盾点に気づいていない。

つまり、三味線や島唄純邦楽など、ほとんどの「日本のうた」は、「日本国」のうたなどではなく、いずれもある特定の地方、ある特定の文化階層の所有物なのだ(日本国のうたは軍歌くらいだろう)。「日本国」という中心文化(=「強い」文化)の文脈で音楽を消費することによって、その地方文化(=「弱い」文化)のアイデンティティを骨抜きにし、場合によっては根絶やしにし得ることに無自覚であってはならない。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080401/1132894754

「日本国のうた」としての小学唱歌とかどうよという突っ込みはさておき。
模範解答的にいえば、「地方文化」をナショナルな文化として包摂し、そして或いはそのようなものとしてパッケージ化し・商品化してしまう、多分〈中央‐地方〉というハイアラーキーとも関係する権力作用を撃て! ということになるのだろう。このことには幾分かの政治的な正しさはある。しかし、他方では、何らかのかたちで脱身体化されて客体化された文化というのは、客体化された途端、誰によっても引用可能なものとして、不特定多数(究極的には万人)に対して差し出されてしまう。昔ビル・ゲイツが英国を買収して英語ユーザーからライセンス料を徴収する(例えば、English MEとかEnglish XPとかEnglish Vistaとか)というジョークがあったが、誰もが英語とか日本語とかを利用できるのは、英語や日本語が「誰によっても引用可能なものとして、不特定多数(究極的には万人)に対して差し出されて」いるからである。マイクロソフトとか米国政府とかにライセンス料を払わなければいけないなら、英語なんて使うか。この構造によって、「文化」は、普遍性を持ち(例えば、ヨーロッパ人でなくても哲学をすることができる)、その「所有」を主張する人々(集団)が「根絶やしに」されたとしても生き延びる可能性を持つ一方で、上に述べられたような搾取に対してはヴァルネラブルになる。今〈サンプリング的本質主義〉という言葉を思いついた。「誰によっても引用可能なものとして、不特定多数(究極的には万人)に対して差し出されてしまう」ということはサンプリングされるネタのストックとして存在することだともいえるだろう。ここでは、〈サンプリングする〉という所作、その仕方が問われなければならないのだろうし、上でいった権力作用というのは〈サンプリングする/される〉という関係において露わになるに違いない。さらに指摘しておきたいのは、多くの場合、こうしたサンプリングは(ステレオタイプ的に)構築された〈本質〉に基づくということだ。特に、現代の音楽ビジネスのように、企画とかプロデュースが先行する場合には。例えば、ロックをベースにして、大阪風と名古屋風を塗して、さらに沖縄風を入れて、序にケルト風をトッピングしてというアイディアが企画段階であったとすれば、その結果生産される製品としての音楽は、ロックとして、或いは大阪的、名古屋的、沖縄的、ケルト的に聞こえるだろう。何故なら、ここにおけるロック、大阪、名古屋、沖縄、ケルトというのはステレオタイプ的に構築されたものであり、そのステレオタイプ的な〈本質〉は消費者側においても共有されていることが期待されているからである。上に引用した文章で「強い」と言われている「中央文化」の強さとは、(中央、ナショナル、さらに或いはグローバルの位置から)ステレオタイプ的に〈本質〉を構築し・サンプリングした「地方文化」をさらにリミックスして、中央、ナショナル、さらに或いはグローバルに、その要素として包摂される(従属する)ものとしての「地方」を提示してしまうことに存するともいえよう。これは空虚な強さともいえるのだが、この強さに如何に抗していくのか。はっきり言って、わからない。


映画監督のジュールズ・ダッシンの死を知る;


RICHARD SEVERO “Jules Dassin, Filmmaker on Blacklist, Dies at 96” http://www.nytimes.com/2008/04/01/movies/01dassin.html