承前*1
角力について、このパッセージはメモしておくに値する;
超大雑把に言ってしまえば、〈殿様〉がいなくなったのが悪いとはいえるだろう(パトロンとしての国民=大衆)。また、桜井哲夫氏は野球漫画が「剣豪小説」の末裔であると論じていた。曰く、
例えば、力士の食事について考えるだけでも良い。相撲取りとは基本的に「暴飲暴食」の人たちである。両国にあるちゃんこ屋で教えられたことだが、彼らはちゃんこのときに「丼に並々と注いだビールをしこたま飲む」という。また、いわゆるタニマチや後援会が開いてくれる宴会で力士が「食べないこと」は大変失礼なこととされ、否が応でも食べざるをえない。それゆえ体調を崩す力士もいるらしい。はっきり言って、クリーンさの欠片もない食生活である。格闘技界全般に言えることかもしれないが「黒いつながり」だって少なからずあるだろう。むしろ、クリーンさとは真逆なダーティな存在であるのが力士なのではなかろうか。あるいは、こんな風に言ってもいいかもしれない。「力士/相撲取りとは暴力的な存在である」と(食の暴力性、または相撲という行為そのものの暴力性)。このような暴力性は、彼らが相撲取りである、つまり一般的な社会とは全く別な儀礼・習慣の中にいきる「異端者」として扱われることによって許容され、また、逆に暴力的であることを求められてきた(社会のルールとは違ったルールが敷かれた、日本の伝統的な世界では梨園もそのひとつとしてあげられるかもしれない)。
にもかかわらず、朝青龍はクリーンさが求められている。白鵬が今ほど完成されておらず、朝青龍が絶対的な強さを誇っていたのにも関わらず、(かわいがり≒リンチ疑惑があった)千代の富士はバッシングを受けていない。同じように絶対的な強さを誇っていたのも関わらず、である。これは時代の変化という要因もあるだろう。しかし、そもそも朝
青龍批判をするものが「力士」という存在を誤認しているところに問題があるようにも考えられる。「角界の代表」として横綱を捉えるならば、天性のヒールである朝青龍は「もっとも暴力的な存在」であっても良いはずだ。
彼らの“誤認”をひとえに「横綱のトップ・アスリート視」と言っても良いように思う。そこでモデルとなっているのは(現役時代の)中田英寿やイチローの存在である。驕らず、常に上昇し続けることを望み、清廉潔白で、素晴らしい成績を残す「アスリート」。たぶん、現在においてスポーツ界全体で選手に対して、そのような修行僧的な姿が求められている傾向がある。その流れが角界にも波及していることの象徴として、朝青龍批判があるのではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080202/p1
そもそも、それまで武術とか武藝と呼ばれていたものは、近代に入って、同時並行的に合理主義化され、精神主義化された*2。桜井氏はあだち充の『タッチ』を例に挙げて、このような「道」としてのスポーツというのは既に終焉していると論じていた(p.68)。しかし、死に絶えたわけではなく、それどころか最近になってまた元気を取り戻してきたということになる。また、かつて野球部というと坊主頭で、サッカー部というとロン毛だったように、サッカーは一般的な体育会系秩序から外れているイメージがあったと思うが、既にそういう秩序に取り込まれてしまったということになるのだろうか。
結局、『巨人の星』も含めて、六〇年代にあらわれた少年野球マンガの本質というのは、武士的エートス(勤勉力行・克己の精神)の通俗化というところにあったのだろうと思う。そして、その武士的エートスというものも野球人の方でも本気で信じていたふしがある。
でなければ、あの王貞治の真剣での素振り――荒川道場での特訓だの、野球選手の参禅だのといったことが疑われることもなくまかりとおっていたわけがない。(略)
あくまでも「道」なのである。剣の道(剣道)と同じく「野球道」なのである。だから星飛雄馬の如く「試練の道」(あの一九六八年三月三十日に始まったテレビアニメの主題歌をここで想起されたい)を歩まねばならぬのである。(『思想としての60年代』ちくま学芸文庫、pp.67-68)
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但し、Geheimagentさんはもっと短いスパンでの変化に言及している。これは一方では、日本人の〈幼稚化〉*3或いは文化的・精神的な米国化であると言ってしまうこともできるだろう*4。また、〈リスク社会〉の進展という観点から考えることもできるだろう。客観的にどうなっているのかはともかくとして、主観的な準位において、私たちを取り巻く世界は以前よりもリスクに充ちたものになってしまい、主体としての私たちも以前よりもヴァルネラブルな存在になってしまった。
思い出したのだが、私が小学生の頃、暴力団との関係云々ということでNHKが美空ひばりを紅白から締め出すという不敬罪を犯し、そのあおりで美空ひばりが全国の公的施設でライヴをできなくなったということがあった。その頃の大人たちの間では、藝能界がきれいではない世界ことは自明のこととしつつ、NHKとかの野暮さやカマトト振りを嗤うという態度が多かったような気がするが、今だったらどうなっていたのだろうか。
千代富士問題ですが、当時はインターネットもなく、全国民的な「バッシング」には至らなかったけれど、私などはあからさまに北天佑を応援していたということはある。
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070202/1170416965 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070830/1188468360 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070905/1189002692 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080116/1200506920
*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060226/1140927585 See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080117/1200593641
*3:昨今流行の言葉遣いをすれば、〈中二化〉といった方がいいのかもしれない。
*4:しかしながら米国人の精神も変化してきているという論説を最近読んだ――ROGER COHEN “Sex in the Cities” http://www.nytimes.com/2008/02/25/opinion/25cohen.html