山田登世子『ブランドの条件』

ブランドの条件 (岩波新書)

ブランドの条件 (岩波新書)

少し前に山田登世子『ブランドの条件』(岩波新書)を読了した。


はじめに――なぜこのバッグが欲しい?


1章 ブランドの誕生――ルイ・ヴィトンはいかにしてルイ・ヴィトンになったのか
2章 希少性の神話――エルメスの戦略
3章 貴族のいない国のブランド――シャネルとマス・マーケット
4章 ブランドは女のものか――贅沢文明史にむけて
終章 「変わること」と「変わらないこと」

引用・参考文献一覧
あとがき 

ここで扱われている「ブランド」は、アヴァンギャルドなデザイナーズ・ブランドでもなく、GAPやユニクロのような大衆向けのブランドでもなく、所謂ラグジュアリー・ブランドである。本書ではルイ・ヴィトンエルメス、シャネルという3つのブランドの創設に遡り、ラグジュアリー・ブランドの条件が考察される。本書で重要なことは、ラグジュアリー・ブランドが「モード」、大衆、大量生産、或いは贋物との対抗的な共犯関係において存立しているということであろう。
少し抜書きしてみる。

シャネルが限りなくモード寄りのスタンスをとって時のトレンド・セッターであろうとするのにたいし、エルメスはむしろ流行から超然とした姿勢をとろうとする。前者が旬の季節のときめきを売るのにたいし、後者は永遠性の高みに踏みとどまって、その「変わらなさ」を売っているようにみえる。
(略)一九世紀に創立をみたエルメスは、同じく一九世紀に誕生したルイ・ヴィトンとならんで、伝統を重んじるメゾン・ブランドの典型である。王侯貴族を顧客にして今日の繁栄を築いてきた二つは、もともと永遠性と貴族性を志向するブランドなのだ。
これにたいし、二〇世紀に誕生したブランドであるシャネルは、大衆の力を背景に生まれ、大衆のマインドと呼応しようとする。(略)
こうしてストリートに寄りそい、モードに寄りそうシャネルのブランド・コンセプトと、「変わらない」ことを重んじるエルメスのそれとは、いわば一九世紀と二〇世紀の開きがある。二つの差異は、ヨーロッパ型資本主義とアメリカ型資本主義ほどにも大きいといってよい。(略)(pp.iv-v)
山田氏は「モードとブランドは相反するものである」(p.7)という。「モード」(或いは「ファッション」)と「ブランド」とはその「時制」において対立する(p.9)。曰く、

モード界への参入によってルイ・ヴィトンが失うかもしれなかったもの、それは(略)「歴史と伝統」である。長い時の流れを生き続け、未来も永きにわたって続く永続性という価値こそブランドをブランドたらしめるものだからだ。
ところが、ファッションは「今」にときめく。次のシーズンにはもう古びたものとなって輝きを失うつかの間のときめき。そのはかなさこそファッションの魅力そのものである。モードは「今がすべて」なのだ。(ibid.)
また、

事実、モードはいつも変化をめざす。それは、何の理由もなく前の季節を否定して、いつも新しく誕生しようとする。いま白が輝いているとすれば、それはたんに去年のモードが黒だったからにすぎない。明日はいったいどんな色が流行るのか、誰にもわからない。モードは何の理由も根拠もなく、変化のための変化をめざす。(pp.10-11)
さらに、ボードリヤール*1の『象徴交換と死』から「モードとは起源(origine)のない出現である」という言葉を引き、「根っから起源というものを知らない」「モード」に対して、「ブランドは、まさに起源を持っている」という(p.11)。「起源の神話」こそが「ラグジュアリー・ブランドの条件であって、伝説のないブランドはブランドではない」(p.18)。ブランド品を買うとき、「わたしたちはお金を払って伝説を買っている」(p.19)ということになる。
象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

しかしながら、

実際には、起源のオーラを保ち続けるには、(略)絶えず過去の神話を活性化し、神話の刷新と永続化をはからなければならない。皇室御用達という由緒ある起源を誇りつつ、同時に現在の流行に遅れてはならない。象徴資本は維持するのが大変な資本なのである。古さを守るためには新しくあらねばならないのだ。さらにいうなら、ロイヤル・ブランドでありつつ、同時にマス・マーケットにもアピールしなければならない。(pp.28-29)

すべてのブランドは、伝統という永遠性とファッションというつかの間の輝きと、相反する二つのロジックのあいだをうまくくぐりぬける綱渡りをしている。その難しい業を身につけたブランドだけがスーパー・ブランドの地位を保つことができる。(p.12)
2章で論じられるエルメスの3代目エミール・エルメスはフォードに代表される大量生産の機械工業の出現に直面し、それまでの馬具生産からハンドバッグなどの皮革製品に転換するとともに、敢えて「ハンドメイドの少量生産」に賭けた(p.72)。しかし、「ハンドメイドの少量生産」は(その反対の)機械による大量生産と対抗的な共犯関係にある。つまり、

職人的少量生産は、大量生産のマーケットがあって初めて価値をもつ。希少性とは、あくまでマス・マーケットを前提とし、その枠があってこそ発生する価値にほかならない。「品薄」という表現はマス・マーケットを前提として成立する言葉なのだ。(p.75)
さらに大量=大衆(mass)を前提にし、それを肯定したのが、3章で論じられているシャネルである。曰く、

現代的なラグジュアリー・ブランドは、「貴族のいない国」アメリカを市場にして誕生をみる。売り手は「貴族のいた国」ヨーロッパ――なかでも美的センスに富み、美食とおしゃれの業に長けたフランスとイタリア――であり、買い手は金のある大衆の国アメリカである。今日、日本をトップにアジア諸国もまた巨大なブランド市場を形成しているが、それをのぞけば、売り手がフランス・イタリアで、買い手がアメリカというこの大まかな図式は二一世紀の現在でもほとんど変わっていない。(p.112)

まったく、デモクラシーの国アメリカはブランド好きだ。ラベルがついていればそれだけで喜んで買う。品質の「ちがい」のわかるような貴族的な美意識などフライドポテト[のような大衆]には縁がない……。こうしてここ二〇世紀のアメリカで、もしこう言ってよければ、「大衆」と「ブランド」のミスマッチな結合が史上初めての成立をみたのである。(pp.113-114)
アメリカで成功したブランドの先駆者がシャネルであったわけだが、「ラベルがついていればそれだけで喜んで買う」とあるように、当時の米国は(現在の中国と全く同様に)偽ブランドが横行していた。シャネルは贋物も肯定した。大衆だけなく、贋物とも共犯関係を結んだ。

シャネルにしてみれば、コピーされるということは、そのデザインにたいする「愛と称賛」の証しなのである。どうしてその称賛を取り締まる必要があるというのだろう。コピー商品は広く世界にシャネルの名を流通させる。それがどんな宣伝効果をもたらすことか。
シャネルはどのブランドよりも先に「有名性(celebrity)」の威力を知っていたのだ(p.120)

シャネルは、その「本物」を輝かせるのは、偽物なのだということを知っていた。偽物は、本物を愚弄しつつ、かつ本物を価値化する。本物しか存在しないというのは、いわば鏡をもたない美女にひとしい。偽物という鏡に映しだされてこそ、本物は神秘のヴェールをまとったフェティッシュになる。(p.148)

(前略)シャネルは、自分の店でつくられるオートクチュールに絶大な自信があった。時には二〇回もの仮縫いを要する手縫いのスーツはまさに贅沢品そのものである。だからこそシャネルはどれほどコピーがでまわろうが平気だったのだ。(p.151)
シャネルについては、同じ著者の『モードの帝国』でも論じられている。
モードの帝国 (ちくま学芸文庫)

モードの帝国 (ちくま学芸文庫)

第4章では、19世紀における贅沢の女性化、プライヴェート化が論じられる*2。また、山田さんの「贅沢」論は宗教的な供儀が「世俗化」したというもので(eg. p.vi)、基本的にジョルジュ・バタイユの系譜を引くものだといえるだろう*3

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070307/1173282553

*2:これは、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080219/1203440787で言及したことに関連する。

*3:これについては、取敢えずhttp://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070918/p1をマークしておく。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070923/1190518210