http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080111/1199984086へのコメント欄で慧遠さんに、濱野智史「『恋空』を読む(1):ケータイ小説の「限定されたリアル」」*1というテクストをご紹介いただいた(いつもいつもすみません)。
まず気がついたのは、「ケータイ小説」を巡る議論で問題になる「リアル」については、「リアル」の2つの意味がけっこうごっちゃにつかわれているんだなということ。偽に対する真、虚に対する実としての「リアル」。「ケータイ小説」が「実話」かどうかという場合に問題になっているのはこの意味での「リアル」だろう。それに対して、(存在論的な真偽、虚実にかかわらず)主観的に「リアル」と感じられるというレヴェルがある。ここで濱野さん、或いは濱野さんが引用している佐々木俊尚氏*2が用いている「リアル」というのはこの意味での「リアル」だろう。さらに濱野さんが紹介している東浩紀が使う「リアル」もそうか。ここでは、最初の意味での(存在論的)「リアル」は(主観的)「リアル」を担保するものでしかない。私が慣れている用語で言えば、plausibleということになるか*3。
このテクストでは、実はまだ濱野さんの論を読むことはできない。続きをお楽しみにということだろう。ただ気になったのは、佐々木さんなどがいう「ソーシャルメディア」、「ユーザー間の「双方向的」なコミュニケーションの過程の中で生み出される「UGC(ユーザー生成コンテンツ)」」としての「ケータイ小説」という視点である。佐々木さんは「集合的無意識」というユンク的な言葉を使いつつ、そうした「双方向」性によってこそ「ケータイ小説」は「陳腐化していく」と述べている。さて、1990年代くらいから双方向性というのは流行ではある。勿論、一方的なコミュニケーション、つまり能動的な送り手と全く受動的な受け手とにくっきりと分かれてしまうようなコミュニケーションよりはいいというのはあるだろう。だから、双方向性が強調されるというのはオーディエンスや読者の地位向上という側面は確実にある。実際、私もそういう方向で思考してきたつもりだ。しかし、昨今流行の双方向性というかソーシャル何たらというのには、ちょっと違うんじゃないかという違和感を抱き続けていた。また、そもそも書く或いは読むという経験は(昨今流行のインタラクティヴとは別の仕方で)双方向的なのではないかと問うこともできるだろう。例えば、佐々木さんは「本来、文学というのは、ひとりの孤高の作家がみずからの内面と向き合い、みずから作り上げた世界観と哲学を世間に問うという行為だった」と書いているが、これは〈文学〉の側の印象操作をベタで真に受けていないか。
こういうことを考えたのは、Skeltia_vergberさんが「ケータイ小説はRPG的な役割取得を読者に強要する」として、
と書いていたのを読んだことにもよる。ここでSkeltia_vergberさんが指摘している小説や漫画の読者が享受し・行使する自由は、一見すると勝手に書くから勝手に読めという或る種の一方向性(反‐双方向性?)によって保証されているのではないか。しかし、全体としては双方向性が息づいている。また、田中秀臣氏の論*4を私なりに解釈すれば、blogは寧ろそのような双方向性(反双方向的双方向性?)と親和的だということになる。
RPG(ドラクエやFFなど、また推理小説系やシミュレーション系なども含む)において、ゲームソフトを購入した時点である程度、物語のplotを共有することが前提とされていないだろうか?つまりドラクエにしろFFにしろ、ゲームのプレイヤーは「作品」(敢えてこの言葉を使います)を購入する時点で、そのスタート地点とゴール地点を想定できるし、その世界観をわかりきった上で、その世界観を追体験するために物語を進めていくことになる。あるいはその物語の主人公などの役割を達成することを目的としている。
だが実際に、作品名だけでしかわからない「小説」や「マンガ」にしろ、スタート地点とゴール地点は共有不可能なものとなる。それが「作者」=物語を操作する者(荒木飛呂彦氏の言葉を引くまでもなく、「作者」が「物語」や「作品」をコントロールできるわけではないのは自明のこととしてあるのだが、それはひとまず措いておく。そして『物語』にしろ『小説』しろ、未完であるものを読み続ける読者と、書き続ける作者のインタラクションを想定している。もちろん『書き下ろし』や『短編』『読み切り』などはあるが、それでも作者は読者との相互作用を前提に書かざるをえない)と、その消費者である読者は、物語の筋や登場人物の人物設定(これも往々にして、完璧に描かれることは皆無である。そんな小説や物語はあり得ない)も、部分的なものとしてのみ表象される。そして読者は「作者」とは異なる「読み」をすることがあり得る。
それらの行為は、オマージュにも、インスパイアにも、パクリにもなる。だが、今回のケータイ小説には、それらの読者側の自由な読みは想定されない。むしろ典型的に「涙を流したいために与えられた役割をこなし続けることを要求されるストーリーが提供される」。
そして、それらのパクリや、わかりやすい記号的なストーリー展開(「ドラッグ」「ホスト」「援助交際」「妊娠」「堕胎」「恋人の死」など)が、ちりばめれているにもかかわらず、それが「リアル」な物語=事実を前提にしたフィクションとして受容されるのかを考えると、「作者」がそれを体験したことを振り返り、テクスト化しているということを謳い、それを読者も(意図的に)共有する作法を身につけているからにほかならない。(略)
http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50402294.html
*1:http://wiredvision.jp/blog/hamano/200801/200801151110.html
*2:http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2007/12/20/entry_25003250/
*3:Peter Berger The Sacred Canopy, Peter Berger & Thomas Luckmann The Social Construction of Reality The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion Social Construction Of Reality (Penguin Social Sciences)