僕という一人称など

Skeltia_vergberさんが浜崎あゆみの歌詞の一人称が常に「僕」であることに疑問を呈している*1。それに対して、Mixiの方で、初期の遊佐未森も「僕」という一人称で歌っていたということを書いた。初期の遊佐さん、すなわち『空耳の丘』、『ハルモニオデオン』 、『HOPE』、『モザイク』辺りまでの外間隆史氏にコントロールされていた時期の遊佐さんは、ヴィジュアル的にもボーイッシュな少女というキャラクターで、「僕」という一人称、「君」という二人称で歌っていた。これに関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060418/1145330536で、「1980年代文化のひとつの側面」としての「ミニマムな性差」の称揚ということに言及した。遊佐さんの場合、「僕」・「君」からの脱却というのは、外間隆史氏からのミュージシャンとしての自立ということと関係があるのかもしれない。

空耳の丘

空耳の丘

ハルモニオデオン

ハルモニオデオン

HOPE

HOPE

モザイク

モザイク

さて、浜崎あゆみ論としていちばん面白かったのは、烏賀陽弘道氏の『Jポップの心象風景』の中の「「文明」と闘うサイボーグ女戦士――浜崎あゆみ」だっただろうか。その中で、烏賀陽氏は「僕」問題には触れていないが、斎藤環氏いうところの「戦闘美少女」の系譜に位置づけている。烏賀陽氏の理屈でいけば、あゆの「僕」は「サイボーグ」化、女性としての身体的リアリティの消去と関係があるということになるのか。勿論、Skeltia_vergberさんも触れている、美空ひばりとかの系譜*2の延長線上で考えるのも面白いとは思うが。
Jポップの心象風景 (文春新書)

Jポップの心象風景 (文春新書)

Skeltia_vergberさんの「最近、「僕」や「俺」という一人称を使う女性がいますけれど、どういう理由からなんですかね?」という(Mixiにおける)提問。最近、そういう女性が増えているのかどうかは知らない。もしそうだとすれば、性差をマクシマムにしつつ性的成熟を抑圧するオタクのジェンダー戦略に対する抵抗だというのは暴論だろうか。