エッセイを巡ってちょっと

Skeltia_vergberさんが『恋空』*1について、「よくできた個人のブログ」と評していた*2。私はそうは感じなかったのだが、それはともかくとして、勿論blogで連載小説をやっている人もいるわけだが、大方のblog(或いは広くウェブ上の日記)で書かれている文章は、身辺雑記や時事的な評論を含めて、エッセイといっていいだろう*3。私としては、エッセイというよりは随筆という漢語を使った方がしっくりくるが。本居宣長の『玉勝間』なんかを読むと、文献からの抜書きと宣長大人の考察・感想が入り混じっている。これって、何だかblog的じゃない?
さて、本としてのエッセイ(つまり、エッセイ集という奴)を考えてみる。エッセイ集の場合、全体が統一的なテーマやストーリーで統合されていることは要求されない。収録されている1篇1篇が一話読みきりということになる。これはblogの場合でも同じだ。それぞれのエントリーは基本的にそれだけで完結している。では、エッセイ集に書物としての纏まりを齎しているのは何か。それは著者の存在であろう。つまり、収録されている様々な文章の背後に〈著者〉の全体的な生の存在が仮定されていること。このことと、エッセイ(少なくとも商品として成立するエッセイ)というのはエッセイ以外の分野での有名人、小説家、詩人、学者、ミュージシャン、俳優、政治家、実業家等々の業余として成立しているということとは関係があるだろう。そういえば、エッセイストというかエッセイだけの人というのは少ないような気がする。岸本葉子さんくらいか。故須賀敦子さんには伊太利文学者や翻訳家という〈本業〉があった。
何故こういうことを書いたかというと、一昨年だったか、自費出版をしたいといった奴がいた。何を出すの? と訊くと、エッセイ集だという。そのときどう答えたかというのを記憶から引き摺り出してみると、先ず自費出版ではなくて、あくまで売り込めといった筈だ。現在出版社は出版のネタを必死で探しているので、無名の人間でもテーマによっては出版を引き受けるだろう。例えば難病物、或いは(そいつは当時塾の講師をやっていたというので)偏差値30台の生徒を一流大学に合格させましたみたいな経験とか(『ドラゴン桜』か)。また、旅行記はもう今余程辺鄙な場所を旅行したとか危険な目に遭ったということでないと無理かもしれない。でも、エッセイ集はきっと却下される筈だ。そんな感じだったと思う。実用書、ノンフィクション、或いは研究書を買うときはテーマで買う。上海に旅行するのにソウルのガイドブックを買ってもしょうがないし、早稲田を受験するのに慶応の赤本を買ってもしょうがないということだ。しかし、エッセイ集を買うときは著者で買うんじゃないだろうか。好きな小説家や俳優のエッセイ集だからとか、或いは現在話題になっているあの人の著書だからとか。とすれば、全然知らない無名の人間がエッセイ集を出したとして、誰が買うというのか。