承前*1
http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/51126888.html
お忙しい中、早速反応していただいてどうもありがとうございます。
ちょっとコメントというか。
さらに究極的には、八尾の町並みを再現したテーマ・パーク的常設劇場に行き着くのでは? ただ、「見る人に喜んでもらってこその、伝統でしょ」というおばはんも9月の初頭という特定の時間に八尾という特定の場所で「風の盆」に立ち会いたいという欲望を持っているとしたら、テーマ・パーク的常設劇場というのは果たして成立するのかどうか。
(前略)八尾市*2の対応は比較的単純な解決策として、エイサーと同じように「見世物」としての部分と、「祭事」としての部分を切り離してやればいいとおもう。前夜祭と本祭で分ければいいし、本祭でのクレームはいっさい受け付けない。むしろますますキチンと整備して、観光客から隠すようにすればいいと思う。
さて、Skeltia_vergberさんは
という図式を提示している。これは非常に興味深いけれど、私が言った「内々の祭事」と「見世物」という対立に対応しているのかどうかについてはちょっと疑問。勿論、「夜」の場合、視覚以外の、聴覚とか触覚といった感覚が(時には視覚を完全に抑圧して)強調される。磐田市鮫島の「見附天神裸祭り」*3では祭りの夜、街への電気の供給自体が遮断される。しかし、「見附天神裸祭り」にしてもその他日本各地の〈暗闇祭り〉にしても見物それ自体を排除しているわけではないということがある。また、「夜」といっても様々な段階がある。例えば先ず昼間との両義性を持った逢魔が時=黄昏(Who is that?)があり、それから宵になる。この宵というのが所謂「夜」というか、最も安全な夜ということになる。さらに、草木も眠る丑三つ時というか深夜。あの大嘗祭を始めとして、秘儀性の高い祭りは深夜に行われる。或いは、奥三河の花祭り*4もクライマックスはやはり深夜でしょう。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100828/1282976283で言及した「首無し武者」の話*5というのは「見世物」化した祭り=遊行の対極にあり、時間としては特権的な時間としての深夜それ自体を表象していると言えなくもない。
「夜」=「隠された」=秩序の外側=偶然性=わかりにくいもの=親しみにくいもの=見えないもの=体感
「昼」=「示された」=秩序の内側=必然性=わかりやすいもの=親しみやすいもの=観たいもの=観察
「おわら風の盆」の研究者といえば長尾洋子さんなのだが、Skeltia_vergberさんが示された「浸食のリズム 「おわら風の盆」の奏でる思想」(『現代思想』2001年8月号)は持ってはいるのだけれど、まだ読んでいない(orz)。それから、長尾さんのblogエントリー「王国の周辺−うるはしき芸能交流」*6もSkeltia_vergberさんによって教えられる。
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*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100906/1283790345
*2:八尾は市ではなく、行政上は富山市の一部ということになります。
*3:See http://www.aikij.com/iku/mitsuketenjin/taikenki/matsukichi/98h/maturi16.html Referred in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090812/1250043151
*4:See eg. http://www.wako.ac.jp/sougou/blog/yamamoto/2008/12/1.php http://www.town.toei.aichi.jp/04_kanko/hanamatsuri.html
*5:See http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100823/1282574475
*6:http://www.wako.ac.jp/sougou/blog/nagao/2008/07/post_92.php