能楽から遠く離れて

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196703664に関連して。



ライトノベルケータイ小説について語るときに、「物語が独創的かどうか」という基準で考えようとする人がいる。ライトノベルの物語は所詮ありきたいな話に過ぎないのではないか、ケータイ小説は既存の文学作品の物語を模倣したものに過ぎないのではないか、という観点からこれらの小説を批判しようとする。

不思議に思う。なぜ物語は独創的であらねばならないのか。そしてなぜありきたりな物語はダメなのか。おそらく、作家の書いた小説や散文が独創的であるか否かという点によって評価され始めたのは、19世紀以降のことだろうと思う。19世紀前半はロマン主義の時代だ。ロマン主義は詩人・作家を創造者として位置づける。優れた創造者が語るものは、独創的でなければならず、他の凡百の物語とは異なったものではなければならない。この物語の独創性に関する評価基準というものは、ロマン主義に端を発し、現在に至るまで(通俗的なレヴェルでは)生き残ってきたものだと考えられる。
http://d.hatena.ne.jp/ryoto/20071205#p1

このことは、能(謡曲)や歌舞伎に親しんでいる人ならば容易に理解できるのではあるまいか。ここで詳しく論じることなどできないが、特権的な主体=「創造者」としての「詩人・作家」と同時に、媒体としての言語の捉え方が変わったということがいえるのではないか。換言すれば、リアリズム問題が俎上に載せられなければならぬ。また、インターテクスチュアリティの隠蔽・忘却という事態もマークしておく。それから、

20世紀のロシアフォルマリズムや文学史上の構造主義は、「物語の独創性」云々で文学作品を論じ上げようとする、19世紀的ロマン主義批評とは別の方向を進んできた。前衛的な文学作品もロマン主義と決別し、物語の独創性ではなく、小説の構造を改革しようとした。そしてその改革に成功した作品が、前衛的な作品として高い評価を得るに至った。そうでなければ、なぜ6月22日の広告取りの日常を描いた小説がここまで高く評価されたか、一人の人間の個人的な記憶を細密に描いた小説が高く評価されたか、説明できないであろう。ジョイスにしてもプルーストにしても、物語の独創性という点で評価されたわけではない。

ライトノベルを叩くときに、妙に「文学」という概念を持ち上げようとする人がいるが、しかしそういう人に限って未だに「物語は独創性であるべきだ」とか「文学は人間の真実に迫るものである」といった19世紀的なパースペクティヴを持っているのはなぜだろうか。シクロフスキーやロラン・バルトノースロップ・フライはどこへ行ってしまったのだろう。特にエンターテイメントを論じ上げるときに、ノースロップ・フライの物語論は実はかなり重要なのではないか、と思うのだけど。純文学の諸作品やライトノベルの諸作品について考えるとき、とりあえず価値判断を括弧に入れて、物語として解析していった方が面白いと思う。

という最後の箇所もクリッピングしておく。
「19世紀的なパースペクティヴ」を保持している人、近代小説の読みすぎで、能楽(或いは歌舞伎)から遠く離れてしまったのだろう。