肯定は否定に先立つ?


自己承認が、最初の他者(多くは親)による承認から生まれてくるのだとすれば、その親は誰に承認されたのか。──そのまた親から、ということになるのかもしれないが、このまま辿っていくならば、無限背進に陥る。最初に1をつくってしまえば、2、3、4を定義するのは簡単だ。しかし、最初に1をつくること。それが問題だ。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20071128/p1
この「無限背進」を肯定すること。つまり、現在私に聞こえる「承認」は本源的な〈承認の一撃〉の倍音倍音倍音であることを肯定すること。

 別様に考えてみる。どのような辛い瞬間においても、その人の肉体は生きてある。いわば、肉体と肉体の置かれた世界の構造、ありとあらゆる自然界の法則は、そこにそのような存在者がいることを承認している。その場において、我思うゆえに我あり、なのだが、そのように我があることは、その場で可能になっており、いわば、世界がそれを承認している。

 そもそも、承認とは、具体的な誰かが承認することによって「創造される」ものだろうか。そうではないように思える。承認とは、私たちが生きてあることの中に「発見される」ものではなかろうか。他者の承認も、たとえば、私があなたを承認するというときにも、あなたは私の承認によって「創造される」のではなく、「発見される」のではないか。

 あるいは、違う言い方をしてみよう。わたしからあなたへの承認が「創造」されるとき、承認されるあなたが「発見」される。

これは「無限背進」の肯定を別様に言い表したのではないかとも思われる。しかし、「世界」の存立を自明視していないか。たしかに、日常的に「世界」があることは自明な事柄に属し、反省的なモードに移行することにおいて、「世界」は地平の地平として見出される。しかし、「世界」を構成するのは私たちなのであり、「世界」の存立は逆に「世界」が「承認」するという私たち相互の「承認」に依存することになる。また、悲しみのような強烈な情動、痛みや痒みに襲われたとき、容易に私から「世界」は消えて(それどころか、他者さえも消えて)、私は自らの身体に監禁されてしまう。さらに、或る種の統合失調症の症状として、〈世界没落〉感があることを付け加えようか。
また別の方の論を読んでみる;

人は無からは生まれない。なんらかの他者の営みから生まれてくる。そういう意味では、全ての人は誕生する時に、原理的には、他者に存在を肯定されている。たとえ生み出した人間から「望まない」「望んでいなかった」と言明されていても、殺されなかったという事実によって、その人の誕生の瞬間に起きた、原初的「存在承認」は担保されている。「存在承認」を経験したことない人はいない。この世に生まれ出ることとは、純粋な「存在承認」の発露だ。

 だが、人は誕生の瞬間の記憶はないので、純粋な「存在承認」とは体験的に覚えておけるものではない。そこで、具体的な他者からの承認の経験から、純粋な「存在承認」を想像する。もちろん、人に人を完全に承認しきることは不可能なので、一部のアイデンティティの承認に留まる。この不完全な、具体的な他者からの承認を受けることで、私たちは「承認」という概念を獲得する。ここから人は、想像力により、生まれてきたときに受けたであろう、純粋な「存在承認」の経験を、自らの生から彫り出し、「生まれてきてよかった」と思えるのだ。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071201/1196438857

引用したうちの後半の段落の「具体的な他者からの承認の経験から、純粋な「存在承認」を想像する」というのは、私が上で使った言い回しで言えば、倍音倍音として聴き取るということになるか。
「承認」が端的に現れるのは言語においてだろう。言語は命名ということによって、或るものを存在者として世界に定着させるといえるが、特に重要なのは、二人称的な呼びかけ*1だろう。誰かに呼びかけられることによって(呼びかけられる度に)、私はその誰かによって自らの存在を「承認」されるというか、それよりもその誰かにとっての「世界」の裡に存在者として登場させられることとなる*2。仮令お前なんか死んでしまえ!という否定的な呼びかけであっても。存在していないもの(存在が承認されていないもの)を否定することはできないからだ。否定するためには肯定しなければならない、肯定は否定に先立つといえるか。
ここから、20世紀になって(特に空爆という戦術・テクノロジーによって)大量に製造された特に呼びかけられ・名指されることなく殺されるという死の不条理さも理解できるのでは?

*1:因みに、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071025/1193332927で「呼格」について言及した。

*2:世界が「世界」であること、「世界」が私だけでなく、その誰かと、さらには万人と共有されたものであることが基礎づけられるのは、このことと関係あるか。