「承認」問題を巡って

「非承認型社会「日本」へようこそ」http://d.hatena.ne.jp/thir/20080627/p1


先ず、「承認」に関しては、「存在していないもの(存在が承認されていないもの)を否定することはできない」という意味での本源的な「承認」*1を先ず区別すべきだろう。この準位での「承認」が揺らいでしまうと、多分生きること自体が殆ど不可能に近くなるのではないか*2。それを前提とした上で、「承認」に関しては、絶対的(非限定的)なものと相対的(限定的)なものに区分できるだろう。曰く、


ここでいう「承認」とは、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められることを指す。自らの物語・生き様が他者のものとして回収・吸収されることなく他者のそれと連結され、社会において一つの存在として認められることと同義である。
どうやら、この方は「承認」ということで、絶対的なものを指しているらしい。しかしながら、その論旨には些かの混乱が見られる。例えば、

人を代替可能な部品としてすら見ようとしない非正規雇用形態では、人間は他の誰でもない個人として承認されることがない。個人的には、非正規雇用の問題は数多く論じられている福祉政策の欠如であるとか同一労働同一賃金問題であるとかより、むしろこの「自らの労働成果が自らの物語として承認されず、他者の物語に吸収され、他者の利益となること」のほうが問題であると思う。問題は「非正規雇用」と「正規雇用」の対立にあるのではなく、「承認されるか否か」にあるのではないか。たとえば年収1000万円の「パンの中にピクルスを挟む仕事」があったとして、誰がその雇用で満足するのだろう。
これは寧ろ〈やりがい〉というべき問題だろう。或いは疎外論的発想。勿論、この問題は重要なのだろうけど、誰も「自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められる」ために労働しているのではないし、そのように「認める」ために労働者を雇っているのではないだろう。寧ろ労働によって、「自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められる」というイデオロギーの方が問題だろう。それは一方で〈無職〉というのを社会的に周縁化してしまうし*3、他方では労働力の徹底的な搾取を帰結するだろう(〈過労死〉に至る労働!)*4。労働に限らず、役割行為の遂行に伴う「承認」は相対的(限定的)なものであり、相手が自分を「承認」するメリットを見出した限りで「承認」が与えられるということになる。
絶対的(非限定的)な「承認」について語る前に、非「承認」について前提的なことを述べなければならない。「承認」という振る舞いが自由な行為である限り、「承認」するということは「承認」/非「承認」という選択肢から「承認」を選ぶという仕方で行われる。相対的(限定的)な「承認」の場合、非「承認」の理由も限定的であり、点数が足りなかった、学歴がない、努力が足りない、コネがなかった、顔が不細工等々の理由が見出され、それで納得してもらうことになっている。では、絶対的(非限定的)な「承認」についてはどうだろうか。このような「承認」が生起するのは、親子関係、兄弟関係、恋愛関係或いは神仏との関係などが考えられる。また、『ベルリン・天使の詩』で、ピーター・フォークブルーノ・ガンツDrink a cup of coffee and smoke a cigarette!と声をかけたようなことも*5、絶対的(非限定的)な「承認」といえるだろう。注意しなければいけないのは、このような「承認」でも「承認」である限り、非「承認」とは無縁ではないということだ。もしかしたら愛が終わってしまうのではないかという(相手への不信なんかとは全く違う次元での)不安が恋愛に陰影や彩りを加える。また、「承認」が絶対的(非限定的)であるということは、非「承認」の場合、納得できるような限定的な理由もない。相手の〈悪意〉に還元することもできない。この場合、非「承認」は圧倒的な不条理、無根拠性として生きられることになる。因みに、所謂「非モテ」言説というのは、この(世界それ自体を存立させているのかも知れない)圧倒的な不条理、無根拠性を受け入れることができないという意味で、〈弱者言説〉なのだろう。さらに言えば、絶対的(非限定的)な「承認」は、存在(existence)を限定する属性を超えて他者を肯定することに関わっており、神仏との関係のような一方的・垂直的な関係はともかくとして、対等者間の関係では、絶対的(非限定的)な「承認」を受けるというのは、自分も他者を属性を超えて肯定することが前提となるだろう*6
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ところで、「承認」の問題というのは、パフォーマンス(lived experience)の準位ではなく、反省という準位において事後的に出現するものではあろう。