2つの経験

中日ドラゴンズ日本シリーズ優勝したという。先ずは慶びたい*1落合博満監督が完全試合目前だった山井大介投手を交替させたことについて議論が沸騰したようだ*2。その結果として、石原慎太郎による諺の誤用まで引き出された*3。色々なblogのエントリーとかを眺めていると、どうもそういう議論自体がうざいという感じはする。これについては、小田亮氏の言説*4を読んでから物を言えということに尽きるだろう。
私は異国におり、この優勝を空間的にも時間的にも共有していないので、これに関しては口を噤みたい。話を一般的な水準にシフトさせる。小田氏の文章を読んでいて、経験(或いはその記憶)には2つの種類がありそうだと思った。玉木正之氏は「100年に1度あるかないかの凄い興奮の瞬間」を経験できなかったことに怒っている。他方、コメント欄で、「黄色い犬」という方が


偶々箕島高校時代の吉井理人の投球を見たことがあるんですが、それはそれは速かった!いまでは見る影もない(どうも日ハムのコーチになるみたいですが)けれど、そのときの経験が、野球の楽しさの重要な部分をなしていると感じます。吉井は現に見ましたが、大学の先輩が、高校時代に野茂英雄と対戦したことがあって、完全試合をくらったそうです。それを悔しそうにうれしそうに話す先輩を見て、現実に見ていない野茂投手のすごさを感じる。
と述べている。玉木氏が(落合監督のせいで)しそこねてしまったという経験と「黄色い犬」さんやその「大学の先輩」がした経験というのはレヴェルが違うだろう。前者は「100年に1度あるかないか」という確率論的(統計的)なものであるのに対して、後者は(「黄色い犬」さんは「そういう経験は必ず具体的な誰かと結びついていて、ぼくが経験したのは「投球の速さ」ではなくて「吉井の投げる球の速さ」、先輩が経験したのは「野茂の球の速さ」なわけで、速さそのものをめでてるわけではないのです」と述べているが)端的に速い投球を直接見てしまうという質に関わっているといえる。勿論、その凄い経験の直接性は無垢のものではないだろう。その凄い直接性は或る種の間接性に支えられて存立しているといっていいのではないか。多分その「大学の先輩」が野茂に「完全試合をくらった」ときは野茂はそれほど有名な存在ではなかっただろう。事後的にあの時「完全試合をくらった」奴がプロ野球やメジャーで活躍していることをメディア等を通じて(間接的に)知り、あいつだったのかと気づき、それが過去へとフィードバックされることによって、凄い直接的な経験が構成されるということになるのではないか。
山田風太郎の明治物の小説には有名な歴史的人物がカメオ出演することが多い。読者がそれを読んではっと思うのは、読者が既に歴史教育等を通じてその人が有名な歴史的人物であることを知っているからだ。それに対して、そんな有名人物が傍らを通り過ぎているにも拘わらず、小説の登場人物が何も感じないのは、その人が有名になる筈の人だという知識のストックを形成していない(形成できない)からである。