旅する吉井勇

川本三郎*1「旅する歌人の系譜継ぐ 寂寥と哀感」『毎日新聞』2022年1月8日


細川光洋『吉井勇の旅鞄 昭和初年の歌行脚ノート』の書評。
「これまで語られることの少なかった旅する歌人としての吉井*2を語る」本であるという。


日本には旅する歌人という系譜がある。旅から旅への漂泊の人、西行や、諸国を遍歴した連歌師の宗祇、あるいは芭蕉を加えてもいい。明治、大正、昭和を生きた吉井勇もまたこの系譜に属する歌人であったことを、著者は豊富な資料を駆使して明らかにしてゆく。

歌枕という言葉があるように、日本人は未踏の地を旅するより、先人たちが歩いた地を辿るのが好きだ。吉井勇も瀬戸内を旅する時にはかつてこの地を旅した国木田独歩を思い、徳島を旅してはこの地に住み着いたポルトガル人のモラエスに思いを寄せる。それは自分が歌人であること、言葉によってしか生きられない者であることを確認する旅でもあった。

本書はまた吉井勇を中心にその周辺にいた人々を描いてゆく群像劇にもなっている。詩人、作家の大鹿卓(金子光晴実弟)、若くして逝った新派の劇作家、瀬戸英一、勇の随筆集を出版した京都のリベラルな出版社、政経書院の田村敬男など印象に残る。
また高知県出身でのちに『婉という女』を書く大原富枝が若き日、山を越えて猪野々*3に隠棲した勇をインタヴューに訪れるくだりは胸を打つものがある。
吉井勇の評伝であると同時に昭和初年の文学史にもなっていて趣が深い。勇が永井荷風を敬していたとは荷風好きにはうれしい。