救うのではなく隠蔽すること

大野左紀子「弱者を救う「押しつけ」」http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20070914


ここでいう「押しつけ」とは高校の制服の「押しつけ」だが、制服(「押しつけ」)が「弱い立場の人々を救っている」機能について、


学校の制服は、家が裕福な生徒も貧乏な生徒も、見かけ「平等」にするものである。ファッションセンスのある子もない子も、制服さえ着ていれば、見かけ「平等」でいられる。学校の制服制度は、制度という「押しつけ」によって、そういう「平等性」をもたらす。全員が毎日自由な私服で、明らかに貧富の差やセンスの差がわかる環境で、何も感じず勉強だけに集中することは難しい。私がその立場だったらたぶん気に病んで、「なんで制服がないの? そしたら皆一緒で余計なこと気にしなくていいのに」と思うだろう。

一律制服だったら、かえって素材の差(美醜)が際立ってしまうから、ルックスの弱点をカバーしたり個性を発揮できる私服の方がいいのではないか?という意見はあるかもしれない。あるいは、すべての高校が私服だったら、どこの学校の生徒か一見しただけではわからないので、高校の偏差値格差を気にしなくてよくなるという意見も。

しかし家の貧乏な子やファッションセンスのない子は、そこでますます引き離されるのである。制服では単に「ルックス強者/弱者」、「偏差値強者/弱者」の格差だけだったものが、「経済強者/弱者」、「センス強者/弱者」まで一目瞭然になる。制服制度はそこのところを、やんわりと覆い隠してくれるものとしても機能していたのだ。

と述べる。
これは「家の貧乏な子やファッションセンスのない子」を「救っている」のではなく、文中にもあるように、「貧乏」や「ファッションセンスのない」ことを「やんわりと覆い隠」す、もっと言えば隠蔽しているにすぎないだろう。「貧乏」や「ファッションセンスのない」ことの辛さが〈気の持ちよう〉*1だったらばそれでいいのだけれど、決してそうではない。それよりもマイナスの方が大きいと思う。世の中には、金持ちもいれば貧乏人もいるし、美男美女もいれば醜男醜女もいれば、センスのいい奴もいれば悪い奴もいる。しかし、公的には、そのような差異を(抹消するのではなく)エポケーして、平等に扱わなければならない。そのような心の習慣を、外見的な差異を意図的に抹消しようとした環境において、習得するというのは難しいのではないかと思う。
また、「貧乏」と「ファッションセンスのない」ことを同列に扱うのはどうかと思う。「貧乏」というのは世帯年収等々によって規定される客観的な事実であるのに対して、「ファッションセンスのない」ことは相対的である。また、「ファッションセンスのない子」がそれを隠蔽されることによって一時の気休めを得たとしても、それによって、その人はますますどんくさくなる。隠蔽することが「ファッションセンスのない」ことを事実として固定してしまうのである。そもそも「ファッションセンス」なるものは遺伝的形質でも何でもなく、他者の視線を受け入れたり・反撥したりしながら形成されるものだが、そのような契機を奪ってしまうということになる。これは議論の能力、例えば論理的思考力とかレトリック力と似ているかも知れない。論理的思考力やレトリック力は対話的に、つまり他人の批判やら突っ込みやらに納得したり・反撥したりする中から形成されるといえるだろう。そこで、自由な討論をすれば、論理的思考力が弱い、或いはレトリック力が弱い「弱者」が劣等感を抱いて辛い思いをするだろうから自由な討論は禁止するなんていうのだろうか。そんなことをすれば、「弱者」とレイベリングされた人は自らの能力を向上させる機会を奪われ、「弱者」という地位は事実として固定化され、更なる「弱者」として貶められてしまう。
「ファッションセンス」に話を戻すと、隠蔽によって一時の気休めを得た「センス」弱者はそのまま後に経済的「強者」(非「弱者」)になったとすると、金で「センス」を買うようになるのだろう。上の顰みに倣えば、高級ブランドは「ファッションセンスのある子もない子も」「見かけ「平等」にするものである」というわけだ。
ところで、一律制服だからといって、「制服さえ着ていれば、見かけ「平等」でいられる」かどうかということはそもそも怪しい。これまでの議論を一気にちゃらにしてしまうかも知れないが、一律制服になると、今度はスカートの丈やらズボンの太さといった細部の差異が重要になってくるのである。あのヤンキー・ファッションは制服の「押しつけ」という事実を前提としなければ存立できない。