実体としてではなく一時的

小田亮氏曰く、


(前略)異質な他者との「対話」が新しい公共的な価値を創りだすというわけです。しかし、「異質な価値観」という差異を顕わにするような「対話」は、ふつうは避けるものでしょう。音楽の趣味や政党の支持が異なっていれば、その話題をできるだけ避けるのが「大人」というものです。議論などをせずに隣にいることができるような親密圏や共同体や日常性とはそのような配慮でなりたちます。つまり、差異や異質性を前面に出して討論することによってなりたつような「公共性」のほうが、社会の中では特殊な状況、特殊な空間なのです。

もちろん、「異質性」や「差異」を隠したり抑圧したりすることが良いと言っているわけではありません。異質性や差異を顕在化させるような討論においてむしろその異質性や差異が固定されてしまうことはよく経験することです。そのような討論によって新しい価値が創られることもほとんどないといっていいでしょう。それに対して、互いに言質をとったりすることのない、互いに配慮しあう親密圏においてこそ、人は別の考えかた、ふだんの自分の考えや他の人と異なる考えをできるのではないでしょうか。つまり、新しい価値観や状況に応じた創造的思想は、他の人が言質をとることがないという「信頼」があって生まれたり表明したりできるものなのです。そして、そのような「信頼」は、「差異」からなる討論や公共圏でつくられるものではなく、黙って隣にいることができるような「配慮」からなる親密圏や共同体で培われるのです。
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070902#1188695651

「差異や異質性を前面に出して討論することによってなりたつような「公共性」のほうが、社会の中では特殊な状況、特殊な空間なのです」というのは肝要だろう。但し、「空間」という言葉は気になる。公共性を巡る議論を読んだり・聞いたりしていていつも気になるのは、空間(space)とか領域(sphere)という言葉が使われることによって、恰も「公共性」が実体として恒常的に存在している、社会的空間が常に/既に、ここは公共的空間、あそこは私的空間というふうに区画化されているという印象を抱いてしまうということである。しかし、「公共性」はそもそもそのようなものとして存立するのだろうか。結論をいってしまえば、「公共性」は実体的・恒常的に存在するのではなく、偶々ある物や事柄が公共的な関心=利害の焦点として浮上したときに、そこにopen to allの原則が貫かれる限りで、否応なく存立してしまう。そういうものではないだろうか。その意味で、一時的(temporary)である。関心が消えるとともに、「公共性」も消えてしまう。また、「差異や異質性」*1は「公共性」を出現させる関心の客観性を保証するためにこそ要請されるともいえる。「公共性」は何時でもは存在しないし、何時でも存在しうる*2。「公共性」問題について現在基本的な論題・課題をコンパクトに呈示しているのは齋藤純一『公共性』(岩波書店)だと思うが、この齋藤氏の著書も「公共性」の一時性という論点を採り上げていないのは玉に瑕か。
公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

ところで、小田氏は「親密圏や共同体において、言挙げなどせずに黙って隣にいることというのは、よく言われるように互いに同質的だからそのようにできるということなのではなく、その間柄において日々創られていく異質性に耐えて、それを育むための「配慮」としてなされるのだと言ったほうがいいでしょう」といっている。このような態度は、(一時的であるとはいえ)「公共性」の存立を持続させるために要請されるものでもあろう。公共的な関心が、それを眼差す視点の「差異や異質性」とともに存在し続けるためには、それ以外の「差異や異質性」は取り敢えずエポケーされることが要請されるからである。

*1:問題になるのは、たんにwhatの準位の「差異や異質性」ではなく、whoの準位における「差異や異質性」であろう。

*2:何処でもは除いた。例えば、自宅のバス・ルームや寝室は出現する「公共性」を迎える場所ではないだろう。