詳しくは齊藤純一『公共性』を参照していただきたいのだが、公共性という日本語を使う場合、それがそもそもpublicなのかofficialなのかcommonなのかということに注意しなければならない。勿論、英語や仏蘭西語でもpublicの意味は変容しているのだから、事情は複雑になるのだが。例えば、官による公の独占、publicとofficialの一体化。或いは、カントとヘーゲルの間に起こったこと。私見によれば、publicとしての公共性はopen to allということしか意味しない。四人囃子の歌詞でいえば、「誰が入ってきてもいいさ/俺たちは歌い続けるから」(「カーニバルがやってくるぞ(パリ野郎ジャマイカへ飛ぶ)」)ということか。
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ハンナおばさんのお誕生日はもう今週末だが*2、
を読んで、不図基本事項を確認したくなった。
公共からの自由はある。内面の思想の自由や、極めて基本的な人権は公共の要求がどうであれ侵害されることはない。公共からの自由はない。公共からの自由がなんであるか、それをどの程度順守するのかを決めるのは公共だからだ。
自由とはなんなのか。誰にとっての自由なのか。誰かにとっての自由が誰かにとっての不自由であるならば、それを調整する力、つまり公共は、暴力である。
自由は暴力によって踏みにじられ、暴力によって支えられる。
公共は鉄人28号のようなものだ。正義にもなれば悪にもなる。正義や悪という価値判断を排除して行為だけを抜き出せばそこにあるのはむき出しの暴力だけだ。
http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20061006/p2
*1:但し、1つの、或いは限定された視点に還元されてはならない。その場合、客観性は即座に失われ、主観的な妄想と区別がつけ難くなる。