貧困の文化?

「肥満増加の裏にある米国の農業政策と階級格差」http://macska.org/article/196


米国における「肥満」と人種や階級との関係及びその再生産を支える米国の農業保護政策。「なんでも、米国が砂糖の消費量を増やすと、直接米国に輸出しなかったとしても国際価格が上昇して砂糖を輸出するキューバが儲かってしまうから、どの会社も砂糖を使うことなんて考えないほどにトウモロコシ原料の甘味料の価格を安くおさえてあるという話も」というのは爆笑もの。布哇のエスニシティの構成の中ではサモア系移民が底辺に置かれているが、サモア系に多く見られる〈肥満〉は伝統的な美学に基づくものなのか、たんなる〈貧困の文化〉にすぎないのかという論争があるというのをどこかで読んだのだが、出典を思い出せない*1。或る程度経済成長を遂げて、それなりに豊かになると、人々は脂を多く含む肉よりも赤身を求めるようになるといわれるが、大トロや松坂牛の霜降りに憧れる日本人という例外があるので、その普遍性は留保しなければならないだろう。
最近、格差社会云々という議論が盛んであるのに、〈貧困の文化(culture of poverty)〉という語はあまり聞かないような気もする。その命名者であるオスカー・ルイスの本も殆ど本屋にないようなので、それも仕方ないということか。勿論、池田光穂氏が指摘するようにこの概念には致命的な問題がある*2。特に「一種の犠牲者非難になっている」ということは重大だろう。「貧困の文化」の文化に生まれ育った人間が貧乏になるのは仕方がない云々。ルイスは「貧困の文化」の特徴のひとつに「運命主義」ということを挙げているのだが、「貧困の文化」という言葉が当事者ではなく外部の観察者(学者だけでなく、行政官や政治家も含む)の「運命主義」を正当化してしまうというわけだ。「貧困の文化」という言葉を生かすためには、意味的秩序やライフ・スタイルとしての文化が如何にして生成するのかということへの省察が不可欠だろう。私たちは貧困という情況にあっても使える素材は(かっぱらってでも)使って、肉体的にも意味的にもサヴァイヴしなければならない。その結果、何かしらの文化が残される。「貧困の文化」はブリコラージュということと近いところで考えられなければならない。当然、それは(正統とされている)文化から見ればまがいもので本来性を欠くジャンクの如きものと写るだろう。「貧困の文化」をこのような仕方で否定したり、無知(或いは正しいイデオロギーの未注入)といったネガティヴな因子に還元してしまうのでもなく、また逆に〈闘う文化〉ということで浪漫主義的に持ち上げたりするのではなく、正当に論ずる必要があると思うが、それは如何にして?
また、文化は文化を越境する。ヒップ・ホップ系のストリート・ファッションにだぼだぼの服というのがあるが、そもそもは新しい服が買えないので、親父や兄貴の服を着たという「貧困の文化」であったわけだ。しかし、日本(或いは韓国や中国の)若い衆にとっては、そのような起源は忘却されたり・隠蔽されたりすることも屡々だろう。こういう問題はどう考えるのか。