顧錚「侵華戦争中的軍曹小津安二郎」『書城』2007年8月号、pp.5-11
顧錚「小津安二郎在長江上撒過毒気」『東方早報』2007年8月9日
小津安二郎の従軍について語る。作家の菊池寛、林芙美子、画家の藤田嗣治、梅原龍三郎らが、「文学報国」やら「美術報国」の名の下で、報道班員として特別待遇で従軍したのに対して、小津安二郎は既に30本以上の作品がある著名な映画監督であったにも拘わらず、一般兵士として、赤紙によって都合7度に亙って応召している。顧錚氏は、それを(山中貞雄の例も挙げて)当時映画というジャンル或いは映画人の地位が低かったことに帰している(『書城』、p.5)。当時は、映画監督よりも小説家や画家の方が偉かったのだ。田中真澄が編輯した『全日記・小津安二郎』には、兵隊としての時期の日記は1938年12月20日から1939年6月5日に至る分しか収録されていない。また、本人が「禁公開」と表紙に記した「陣中日記」が別に存在する。
さて、『東方早報』の記事のタイトルにもなっている小津安二郎と毒ガス問題だが、顧錚氏が述べているように、先ず1999年に共同通信が配信した小池新氏の記事、それを契機として、2000年8月に『キネマ旬報』に掲載された山口猛氏のテクストによって、日本国内でも知られるようになったものである(『書城』、p.7)。因みに、私がこのことを知ったのは、貴田庄『監督小津安二郎入門 40のQ&A』(朝日文庫、2003)によってだったか。
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小津安二郎は戦争中は自らの従軍体験を様々なメディアに語っている。しかし、戦後は「自己的戦争経歴」に関しては「緘口不語」(『書城』、p.11)。この「沈黙」について、顧錚氏のテクストは
と結ばれている。
従中国復員後、小津曽経説過:“如果反問自己是否相信膠片*2的話、我的心情是不能相信。如果面対震撼的現実的話、就会心生不安。”這種不安中、是否也包括了作為一個加害者的内心懺悔而因此選択沈黙?而他的沈黙、如今一切都帰於那個鐫刻在鎌倉的小津墓上的“無”字(ibid.)