「めちゃモテ」の限界(メモ)

承前*1


http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070807/1186490993


内田樹氏の「めちゃモテ」論*2に対して、「その「めちゃモテ」戦略の限界も既にみえている」という突っ込み;


以前も書いたけれど、エビちゃん並にカワイイ私の友人はまさに「みんなに愛される」が、「ココゾという時には愛されない」という恐怖に怯えている。「みんな私をかわいい、優しいというけれど、私を一番に選ぶ事はない」というのが、彼女の悩みである。
以前にも書いたような「つまらな」さということはある。或いは、「万人にちょっとずつ愛される」ような者を選んでしまうと、選んだ自分が「万人」と交換可能な存在であることを思い知らされてしまう。この私このあなたを選ぶという〈この〉が忽ち相対化されてしまうような感じ。
ところで、小田亮氏は

きのう研究室に若手の人類学者のTさんが訪ねてきて、「人類学の失われた10年」についての話を聞きたいという。でも、話は、最近の若い研究者は、自分が評価されるときや人を評価するときの基準というか軸として、「もてる/もてない」という基準=軸しか考えていないのではないかという話になった。「もてる/もてない」という基準は、「売れる/売れない」ということでもあり、市場原理の基準である。そのような基準一色になっているのは、何も若い研究者だけではないかもしれないが、市場原理主義の蔓延という時代的な要因と、若い頃のほうが「もてたい」「売れたい」という欲望が強いという世代という要因とで、若い研究者のほうが「もてる/もてない」という基準に染まりやすいということはあるかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070711#1184140879
と書いている。ここで、小田氏が「もてる」と対立させるのは「かっこいい」という基準である;

私も若いころには「もてたい」「売れたい」という欲望が人並み以上にあったと思う。しかし、それ以上に気にしていた評価の基準があった。それが「かっこいい」かどうかという基準だ。「もてる」「売れる」に越したことはないが、それよりも「かっこいい」ことのほうが大事だったと思う。しかし、「かっこいい」という評価の基準が、どうもいまは忘れられているというか、「もてる/もてない」という市場原理の基準に飲み込まれているような気がする。

だいいち、顔のない関係やどうでもいい人たちから「好き」といわれて「もてて」も、たいしてうれしくはないだろう。それよりも、自分が好きな人から好かれたり評価されたりするほうが比べものにならないくらいうれしいはずだ。

さて、恋愛に関して、「「めちゃモテ」戦略」というのは〈都合のいい女(男)〉として玩ばれてしまうというリスクを抱え込むのではないかと思うが、如何だろうか。セフレにはなれても恋人にはなれないというか。勿論、それでも構わないという人もいるのだろうけど、そう単純に割り切れないから、上に引いたようなお悩みが出てくるわけだろう。
また、労働市場に置き換えれば、私をそこそこ便利で使い勝手がいい(安価な)労働力として使い捨てて下さいということになるか。勿論、誰も私の労働力を買ってくれないということよりは遥かにましなことなのかもしれないが。

それから、「ここのところ、テレビをつけるたびに、聖子ちゃんを目にする」ということを知る。