先ずhttp://d.hatena.ne.jp/eirene/20070407/p2にて、「「一神教は争いを引き起こす」という言説について」というエントリー*1を知る。これは石原慎太郎の「宗教の無力」というエッセイ*2を踏まえたもの。
石原慎太郎のエッセイについてはコメントしない。ただ、そこで引かれているニーチェの所謂神は死せりの理解が凡庸且つ間違っているということは指摘しておこう。ニーチェを直接読まずに引用しているだろう。それはともかくとして、「一神教」と「多神教」の対立である。ここで言われているように、「一神教」と「多神教」を単純に対立させる言説はありふれているといえるだろう。思ったのは、何故その対立それ自体を疑わないのかということ、また「一神教」/「多神教」という対立が諸宗教を分類(理解)する上で或る有効性を持っているにしても、はたしてそれは最重要な区別(特徴)なのかどうかということだ。ただ、これは少しでも宗教学とかに親しんだことがある人にとっては、殆ど自明のことであろうし、取り立てて目新しいことをいうつもりはない。
所謂アブラハムの宗教が「一神教」であるとはいっても、これらの宗教が唯一神以外の超自然的存在者を認めないわけではない。超自然的存在者としては、悪魔、天使、精霊がいる。また、被造物である人間が聖化されるということもある。例えば、スーフィズムにおける聖者信仰やカトリックの守護聖人信仰。ここには取次ぎという観念が介在しているのだろうけれど、純粋な「一神教」を保とうとする人々から見れば、「多神教」に見えることになる。また、イスラームの有名な信仰告白に「アッラーのほかに神はない」というのがあるが、これは英語で表現すると、There is no God but Allahである。これを再度日本語にパラフレイズしてみると、〈神は存在しない、但しアッラーに関してはその限りではない〉になる*3。最もラディカルな「一神教」と目されているイスラームにおいて、無神論すれすれの思考が為されていることになるのだ。仏教の場合、そもそもアブラハムの宗教と同じレヴェルで比較可能かどうかということがあるのだが、論者によって、それが一神教に見えたり、多神教に見えたり、無神論に見えたりすることもあるということはおさえておく。ただ、密教の或る種の解釈のように、根源的な法身仏を立てて、諸物・諸神を含む世界それ自体がその変様にすぎないとした場合、それは著しく「一神教」に近くなるとはいえるだろう。また、浄土教(阿弥陀信仰)や法華信仰の西方の「一神教」(アブラハムの宗教)との類似性は常々指摘されているところだろう。「多神教」の代表選手のように言われているヒンドゥーにしても、それについて多神教とする解釈もあれば一神教とする解釈もある*4。
実は、所謂アブラハムの宗教を他から分かつ特徴は「一神教」ということではないと思う。唯一神がコスモス*5の外部に位置しているということ、そして神が無から世界それ自体を創造したこと。外部の人間から見たアブラハムの宗教の突拍子もなさは、それらが「一神教」であることではなく、この神が世界の外部にいるということ、無から世界を創造したということに尽きるだろう。
しかしながら、宗教を考える上でさらに重要な特徴があると思う。(一神教であれ多神教であれ)超越的な存在者と私たちとの関係について。マックス・ウェーバーのいう「神秘主義」と「禁欲主義」の対立。私たちは「神の器」なのか「神の道具」なのかという対立。後者において、宗教は倫理や政治といった世俗的セクターに結びつきやすい傾向があるのは否定できない。その結びつき方は、シンボリックに基礎付けるというようなものではなく、「道具」として位置づけられるという仕方だろう。
宗教と戦争やテロなどの社会的暴力との関係を問うときには、宗教と社会的共同体との関係を問わなければならないだろう。その場合、普遍主義/特殊(個別)主義という対立を考えることは不可避である。そこにおいては、普遍主義と排他性の(実は親しい)関係*6が焦点が当てられるだろうとは思う。また、宗教社会学ではお馴染みのチャーチ/セクト論にも批判的に言及せざるをえないと思うのだが、今その余裕はない。さらに、宗教と暴力というと、「一神教」、所謂アブラハムの宗教ばかりがフォーカスされるが、スリランカにおける凄惨な宗教対立は仏教vs. ヒンドゥーであること、オウム真理教も仏教を名乗っていることに思いを致さなければならないということはいうまでもない。また、近代(modernity)をほかの時代から画する鍵言葉のひとつが〈純化(purification)〉であることも重要である。厄介なのは、それを全面的に否定することも肯定することもできないということ。〈種的同一性〉と結びついたこれが近代以降の宗教的・世俗的暴力の背景のひとつにあることは間違いないが、一方でこれによって、社会の様々なセクターの機能的自立性が基礎付けられているということも事実なのだ*7。
*1:http://d.hatena.ne.jp/ryoto/20070405#p1
*2:http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no51.html
*3:これに関しては、中田考『イスラームのロジック』を参照のこと。 イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで (講談社選書メチエ)
*4:これについては、Kshiti Mohan Sen『ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方』講談社現代新書、1999 を参照されたい。
*5:ここでいうコスモスはカオスと対立する意味でのコスモスではなく、カオスを包括した世界それ自体。
*6:これについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070328/1175084468でちょろっと触れはした。