道徳は矛盾する

広坂さん*1が引用する『朝日』の記事によると、「教育再生会議」では「道徳」を正式「教科」に格上げする方針で一致し、「副主査」の「元文部科学事務次官」である小野元之という人は「道徳」を正式「教科にするメリットは、教科書をきちんとつくって規範意識道徳心、規律を教えていくこと」といっているそうな。私としては、染み着いてしまっている「道徳」を一度見直させる契機としての文化人類学*2を正課にしたほうがいいんじゃないかとか、いっそのこと、(仏蘭西みたいに)哲学を正課にしろよとも思うのだが、どうなのだろうか*3
広坂さんは、


道徳の教科書なんて、どうやったら作れるのだろう、と途方に暮れるのは私のような素人で、(小野氏)のような人の頭には、もうとっくに見本が出来上がっているのだろう。

私が途方に暮れるのは、万人に教えられるような正しい道徳なんて、お釈迦様やイエス様じゃあるまいし誰が教えを垂れられるのだろう、とも思うし、倫理学の世界で喧々囂々と議論してなかなか決着の付かないようなことをどうやって教えるのだろうと首を傾げたりするからなのだが、(小野氏)のような人にはそういう迷いはないのだろう。

迷いがないのはある意味では当然である。

昨年末に改悪された現行教育基本法の特徴のひとつに、学習指導要領道徳編の法的根拠付けという性格があった。第二条(教育の目標)が指導要領道徳編に則ってつくられていることは明かである。

教育基本法は、文科省の通達に過ぎない学習指導要領と違って、そうそうコロコロ変えられない。

とすると、現行学習指導要領の枠組みが法的に正しい道徳として、これからも継続されていくことになる。

国定道徳は既に定められているのである。

とコメントしている。
思うに、どんな「道徳」でも綻びというか矛盾があるものである。だから、みんな悩む。そこでは「道徳」が宙吊りにされた場所で「道徳」を選ぶ決断を(自己責任的に)しなければならない。「規範意識」など無駄かも知れない。何しろ、当の「規範」を選ぶこと自体が問題になるのだから。(お国のために)戦争で死ぬのは〈忠〉に適ったことであろう。しかし、それは同時に〈不孝〉を構成しうる。また、〈義理と人情〉。「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」と鶴田浩二が歌っているように、そもそものアンバランスはあるかもしれないが、どちらを選ぶかはあなたの決断なのだ。こういうダブルバインドな状況での「道徳」的振る舞いに「教科書」がどれ程有用でありうるのかということは問うてみる価値がある。
決定不能性の試練を通過しない決断は決断に値しないとデリダ先生はいう。しかし、このことが20世紀になるまで気づかれなかったわけはない。ちょうど妻が読んでいた葉嘉瑩『葉嘉瑩説漢魏六朝詩』(中華書局、2007)という本の中に、「破竹国」の公子である伯夷と淑斉の話を引かれていた(p.214)。父の意を汲むべきか長幼の序を定めた宗法に従うべきかというディレンマ。長幼の序を巡るディレンマは『日本書紀』でも顕宗天皇*4仁賢天皇*5の話として反復されている。道徳を巡るディレンマの話として、古代希臘にはアンティゴネーあり*6
来る「道徳」「教科書」はこうしたことどもに如何に向き合うのか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20070330#1175251891

*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070413#1176463954

*3:そういうことをいうと、〈おフランス〉が嫌いであるらしい石原さんを支持するような人々から袋叩きに遭うか。

*4:http://inoues.net/tenno/kenso_tenno.html

*5:http://inoues.net/tenno/ninken_tenno.html

*6:これについては、守中高明氏の『法』(岩波書店)に言及したhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050711もご笑覧いただきたい。

法 (思考のフロンティア)

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