それは反復?

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20070324
http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20070319


倖田來未の新曲に対して、「同性愛者」から批判が寄せられているようだ。
これを見ていて、粗雑な二元論の犠牲者である筈の「同性愛者」がその同じ二元論を駆使する立場に立っていると思った。「同性愛者」に対する差別は異性愛/同性愛というハイアラーキカルな対立に依存している。そのため、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070320/1174417738で使った表現を流用すれば、「5+3」を「4+4」に近づけること、さらには二項対立それ自体を掘り崩していくことが課題となる。しかし、この外部からスティグマとして賦課された筈の二元論は、差別されることの根拠であるとともに、抵抗のためのアイデンティティの根拠ともなっている。粗雑な二項対立が脱構築されてしまうことは「マイノリティの対抗運動・解放運動を危うくしてしまう可能性もある」所以である。しかし、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070324/1174748697で引用した李晟台氏の言葉を再度引用すれば、「類型化されるものは、類型化によって捉えきれない何かを指し示す」ということになる。「類型化によって捉えきれない何か」或いは異質性の浸透から「類型化されるもの」或いは同質性(アイデンティティ)を防御するためにどうするのか。それは差別と抑圧であろう。異性愛者が「同性愛者」に対して行ったように。ここで差別・抑圧の対象となっているのは「バイセクシュアル」や「ポリセクシュアル」である。上に挙げたエントリーでも、殊更に「同性愛」と「バイセクシュアル」や「ポリセクシュアル」との差異が強調されているように思えた。恰も、


 「モノセクシュアル」(異性愛/同性愛)/「バイセクシュアル」


という二項対立が新設されているかのようである。
勿論、「バイセクシュアル」を持ち上げるというのではない。「バイセクシュアル」だって、「バイセクシュアル」/「モノセクシュアル」という二項対立に固執する限り、同様な運命が待ち受けていることは想像に難くない。では、粗雑な二項対立の脱構築を肯定すること(二元論の罠に填らないこと)と「マイノリティの対抗運動・解放運動」を肯定することを両立させるためにはどうすればいいのか。ひとつの安易な途があると思う。上のエントリーを読んでいて気付いたのだが、〈同性を欲望する〉ということよりも〈異性を欲望しない(できない)〉ということが強調されているようだ。何故、ポジティヴな欲望を強調しないのか。これはのこのこと異性愛中心的な文化秩序が用意した罠に自発的に入っていくようなものではないか。
ポジティヴな欲望を前面に掲げない(掲げられない)という症候はここだけには限らないようだ。