俗情の市場価値

http://www.ganbareusui.com/


渋谷知美さんのblog*1で知る。また、http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20070623/1182541435http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070623/1182605699も参照されたい。
東京都下の東村山市で、矢野穂積朝木直子という2人の市会議員が薄井雅美という市会議員が「風俗記者」であったことを以て、それが「セクハラ」に中たるとして、議員「辞職勧告」をしているという。色々と関連のテクストに目を通した限りでは、矢野と朝木の所業というのはたんなるいじめ・嫌がらせでしかないと思った。また、この2人の発想・所業がそもそも職業差別・業種差別であるという多くの人の指摘は全くその通りだと思った。
この度の矢野と朝木の発言を一言で言えば、〈俗情との結託〉ということになるのだと思う。このことだけじゃなくて、政治家がお馬鹿な発言をする場合、考えてみなければいけないのは、この〈俗情との結託〉ということである。いくら批判されたとしても、政治家は自分の発言は支持されているぞという自信みたいなものがあるのだろう。市町村会議員にせよ国会議員にせよ、政治家が政治家として延命しているのは、有権者(消費者)がどんなものを望んでいるのか、つまり〈市場の声〉みたいなものを察知して、有権者(消費者)が聞きたい(消費したい)言説を提供しているからだろう。つまり、1人の政治家のトンデモ的な発言の背後にはそれに共鳴する一群の有権者(消費者)を予想しなければならないわけだ。ここで、plausibility structureという社会学用語を持ち出してもいいのだが。
だから、残念ながら、今回のいじめ・嫌がらせのトンデモ発言はそれなりの支持基盤があるのだろう。レトリックとして見ると、先ず世界の中の存在者は、きれい(無標)/きたない(有標)というふうに分類される。セクシュアリティは後者に振り分けられるが、問題なのはセクシュアリティなくして社会の再生産は不可能だということである。そのせいかどうか知らないが、セクシュアリティは再度きれいなセクシュアリティ/きたないセクシュアリティというふうに分類される。また、ここできれい/きたないという対立は正しい/間違ったという対立が重ねられるということもあるのかもしれない。今回いちゃもんがつけられたという「風俗」は後者に振り分けられるということになるのだろう。また、言っておかなければならないのは、きれい(正しい)という項は無標であり、きたないとか間違ったという有標な項が定立されて、初めてその否定項として自らのアイデンティティが確定されるということだ。
世界をこのように分類する俗情がそれなりの市場になっているということは、ジェンダー・フリーやら性教育やらに対するバッシングやバックラッシュが横行していることからもわかる。ややこしいのは、そのような明らかに右翼的な語彙が使われるだけでなく、左翼的であったりフェミニズム的であったりする語彙が使われることもあるということだ。今回の言いがかりはまさにその例であろう。そういえば、私も以前「カマトト」な(或いはそれを装った)〈左翼blog〉をちょっとおちょくったら、ちょっとアレなコメントを頂戴したということがございました*2

ところで、朝木と山崎という人名と東村山という地名で、思い出したのだが、1995年に創価学会絡みで事件があって、その当事者でもあったわけだ*3。この事件については、真相を知らないので、何も申し上げない。しかし、この2人が今回寄せられた批判は創価学会の陰謀だと言い出すとしたら、それは見当違いである。「正直言って、このバカ議員2匹は玉川上水に身投げするか、奥多摩でクビ吊って死んだほうがいいんじゃないんだろうか」とまで言っているmuffdivingさんは明らかに創価学会に対してはアンチのスタンスを取っている人だからだ。