差別について形式的に

何だか差別についての議論が賑やかなようだ。
先ずはhttp://d.hatena.ne.jp/sivad/20070317を起点にしよう。
ここでは日本国憲法第14条の「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」が引用され、


ただし、これは個人が個人に対して差別心を持ってはならないというところまでは保証しません。

むしろそこまで踏み込んでしまうと逆に「思想の自由」に抵触する恐れがあります。

ですから心の中で差別したい人は自由にすればいいと思うのですが、それに社会的な理由付けをして表現するとなると、話は大分変わってきます。

大体、個人において「差別」したいならば話は簡単、「私は〜が嫌いだ」で十分なのです。そこにウダウダ社会的な理屈を付ける必要はない。社会的な理屈を付けたいならばそこにはファクトが必要となるし、もはや実務的な議論にしか意味がない。

と述べられる。勿論事柄は「国民」ではなく、人一般に関わると思うのだが、ここで言われていることは大まかにいって正しいことだと思う。
さらに言えば、〈差別発言〉をする自由というのは認められなければならないと思う。但し、言われた側には当然反論する権利はあるし、直接関係のない第三者にしても批判する権利はある。〈差別発言〉をする自由はあるけれど、同時に批判や糾弾に応答しなければならない。どんな面倒を抱え込むことになるとしても、それは自己責任だということになる。それが嫌ならば、〈差別〉は自分の胸の裡や抽斗の裡或いはハード・ディスクの裡に閉まっておくべし、まかり間違ってもウェブなどにアップロードしてはならないということになる。
また、〈差別発言〉と〈差別的な待遇〉は事柄の準位は違う。多分憲法第14条もここに関わっているのだろうと思う。いくら差別的な心情を持っていたり・日頃は差別的な発言をしていたとしても、それを社会的なサーヴィスにおいてはその振る舞いに反映させてはならないということである。換言すると、或るカテゴリーを不適切な場面に使用してはいけないということである。そこではニーズの有無或いはニーズの種類のみが問題なのであって、それ以外のことは(一時的にせよ)意識から追放しなければならない。医療の場合だと、怪我や病気のような手当が必要とされる状態に意識を集中しなければならない。例えば、嫌韓の医者の前に韓国人の患者が担ぎ込まれてきた場合、彼/彼女は日頃の韓国人に対する感情を意識から追放し、治療に専念しなければいけないということだ*1。接客というような実践の場合、ニーズの有無或いはニーズの種類のほかに相手の支払い能力が絡んでくるだろうけど、その場合でもあらゆる属性の人を(潜在的な)〈お客様〉として扱わなければいけないというのは理に適っているといえる。
次に小山ちえエミさんの言葉;

売春者が法律を破るから「侮辱しても差別にはならない」のではない。「法律を遵守している善良な一般市民」こそ、侮辱しても差別にはならないのだ。

 売春者が世間のモラルに反する仕事をしているから「侮辱しても差別にはならない」のではない。モラルを押しつける宗教者や教員や政治家こそ、侮辱しても差別にはならないのだ。

 不法滞在している外国人だから「侮辱しても差別にはならない」のではない。世界のどこに行っても日本人という国籍に守られた人々こそ、侮辱しても差別にはならないのだ。

 ひきこもりやニートだから「侮辱しても差別にはならない」のではない。高給を受け取って社会生活を営んでいる正社員こそ、侮辱しても差別にはならないのだ。

 

 わたしは何も、これらの集団に対する侮辱を積極的に行なうべきだとは思っていないよ。侮辱はやるならやっぱり個人レベルでやるべきで、ある一面の属性だけで侮辱しちゃうのは基本的にあんまりよくない。でも、「法律を遵守している善良な一般市民」が、「法律を遵守している善良な一般市民」であることを理由で侮辱されたとしても、全然実害ないじゃん。誰も傷付かないじゃん。「侮辱した側がおかしいだけ」で済まされるでしょ。

 売春婦は、それじゃ済まないんだよ。そうでなくても世間の風当たりは強いのに、そうした「世間の風当たりの強さ」を理由として「侮辱しても差別にはあたらない」という人がいる。まったく逆だよ。世間から差別されている集団だからこそ、本来どうでもないはずの小さな言葉や行為が「差別的」になるわけ。
http://d.hatena.ne.jp/macska/20070320/p2

これを念頭において、差別を形式的に語ることにする。和蘭の人類学者アウエハントが考えた有名な?数式擬きがある;


 8≠4+4
=5+3


文化は様々な二項対立的なペアの集積からなっている。例えば、男/女、健常者/障碍者etc。これらのペアは決して平等に対立しているのではない(8≠4+4)。二項のうちの何れかが優位に立っている(8=5+3)。だから、優位な側を「侮辱」するというのは不均衡な対立を4+4に近づけていく試みでもある。問題はここから先だ。デリダも先ず不平等な対立をひっくり返して然る後に対立自体を揺るがしていかなければならないと語っていたように思う。差別を語る場合、対立する二項の存立をこそ問題にしなければならない。それぞれの項を本質的で固定したものとしてしまうことが差別を生み出す。考えてみれば、或る言葉が「侮辱」なのかそれとも賞賛なのかは時として決定不能である。私は気違いとか凶暴という言葉は賞賛としてしか使わない。例えば、ドルチェ&ガッヴァーナの革ジャンさ、すごく凶暴な感じがして、着るとクレイジーでいい気分になれそうなんだけど、高いよねとか。そもそもロックとかプロレスの世界ではこれらの言葉は褒め言葉でしかないだろう。しかし、必ずしもそういう受け取り方をする人ばかりではないということも承知している。或いは、黒人はデカマラだという俗説があるが、これは賞賛だろうかそれとも「侮辱」だろうか。どちらであれ、それが(この場合は生物学的な)本質として語られる場合には、差別に繋がるのである。つまり、存在する具体的な人を〈本質〉に封じ込め・固定することであり、実際には「侮辱」か賞賛かは、二項対立の優位な項の側に位置する者が選択する力を持ってしまうということになる。今回の論争の発端についていえば、その人が「売春婦」に対してどのような態度を持っているのかという以前に、過去の「売春」という行為から「売春婦」というカテゴリーを作りだし、その本質を固定し、「存在論的地位(ontological status)」を与えてしまっている段階でかなり問題だと思う*2。行為とカテゴリーとの関係が決して自明なものでないことは、19世紀までは同性愛的な行為は当然存在していたが、同性愛者という人たちは存在しなかったということを想起していただきたい。また、カテゴリーを与えることがカテゴリーを実際に存在させてしまうともいえる。盗人呼ばわりされて、泥棒になる決心をしたジャン・ジュネ少年。
ただ、こうした発想はマイノリティの対抗運動・解放運動を危うくしてしまう可能性もある。眠いので、あまり詳しくは述べられないが、脱構築が生起した結果露呈する不純であることを積極的に肯定することが鍵になりそうだという気はする。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060919/1158671904で書いたことと関係があるかも知れない。

*2:http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070320/1174387910を参照した。