最近齋藤純一『自由』(岩波書店、2005)を読了した。
「「自由である」とはどういうことかを、それを個人的な問題として位置づけようとする思想や行動に抗して、私たちの〈間〉にある公共の問題としてとらえ直す試み」(p.vii)。
この本についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070205/1170649460でも言及したが、取り敢えずその目次を書き写しておく;
第1部では、「自由」をその「脅威」から記述することが試みられ、次いで「自由」論の代表としてアイザイア・バーリンの所説が採り上げられ、それに対する緒批判が紹介・検討され、「自由」の輪郭が浮き彫りにされる。第2部では、「自由を二つの次元――共約的次元および非共約的次元――に分節化し、それぞれの次元において自由はどのように擁護されるべきかを考察する」(p.xii)のだが、「自由にはいわば「自己への自由」がその契機として含まれていることに光」が「当て」られ(pp.55-56)、とても乱暴に要約してしまうと、そこでの論点は自由/自己/他者ということになる。
はじめに
I 自由概念の再検討
第1章 自由への脅威
第2章 消極的自由への批判
II 自由の擁護
第1章 自由の再定義
第2章 自由の規律
第3章 自由と安全
第4章 自由と公共性
結びにかえて
III 基本文献案内
あとがき
詳しくはまた後日言及したいのだが、ここでは著者が最初に示している「自由」の仮の定義を紹介し、著者が枕で述べている「自由をめぐるいくつかの「落差」の経験」(p.iii)について言及する。
「自由」の仮定義*1;
「自由をめぐるいくつかの「落差」の経験」――
自由とは、人びとが、自己/他者/社会の資源を用いて、達成・享受に値すると自ら判断する事柄を達成・享受することができる、ということを意味する(ただし、他者の動揺の自由と両立するかぎりでその自由は擁護される(pp.vii-viii)。
1)「あたかも無限の選択肢が与えられているかのように見えながら、現実に私たちの前に開かれている選択肢はごく限られているという「落差」の経験」(p.iii)or「開かれているとされる選択肢とそれを実現する具体的な力との「落差」」(p.vii)
2)「人びとが現に享受しうる自由の間に生じている大きな隔たり」(p.iv)
3)「何を自由の制約・剥奪として受けとめるかという、いわば感じ方(sensibility)における「落差」」(p.v);
例えば「経済活動の一層の自由を求める人びとが感じる不自由と、社会保障の受給額の減少(あるいは自己負担の導入や増額)ゆえに「移動の自由」を制約される――障碍者の施設の多くは交通のアクセスが悪いところに位置している――人びとが感じる不自由との間には大きな隔たりがある」(p.vi)。
また、俺には「関係ないよ」問題(ノーマ・フィールド)。例えば「「日の丸」「君が代」の強制がもたらす表現における不自由」etc.――そのような「他者が現に経験する自由の剥奪は、それが社会のあり方にどれほど深刻な影響を及ぼすものであっても、自らにとっては「関係のない」問題として処理される」(p.vii)ということも起こる。
- 作者: 齋藤純一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/12/21
- メディア: 単行本
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*1:その補足的説明はpp.xiii-xii.