個人主義でも共同体主義でもなく

http://d.hatena.ne.jp/kechack/20070219/p1

曰く、


個人主義批判言説がここ最近よく聞こえるようになった。面白いことに右派は個人主義サヨクだと言い批判し、これからは共同体主義だと言い、左派は個人主義新自由主義の所産だと批判しこれからは共同体主義だと言う。

 結局日本の古い右派も左派も実は共同体主義、悪く言えば全体主義であって、個人主義は70年以降のアメリカのラディカルカルチャーの影響を受けた穏健左派と80年代以降に入った新自由主義によってもたらされたものである。個人主義を右か左といった二分律で説明するのは不可能である。

いくら何でも、「共同体主義」と「全体主義」を同一視してしまうのは乱暴かと思う。
確認しておくと、大まかにいって、政治哲学的には、一方では政府へ参加・介入する権利を強調する人たちがいて、他方では政府から介入されない権利を強調する人々がいる。前者は共和主義とかコミュニタリアニズムと呼ばれ、後者は自由主義と呼ばれる。その自由主義はここでいう「個人主義」と親和性があるといえよう。
個人主義」については、以前スティーヴン・ルークスが詳細な分類と解説を試みていたと思う。また、基督教でもイスラームでも、神は個人に対して呼びかける。そのような宗教が伝統的に制度化されてきたことが「個人主義」を基礎付けているということはいえると思う。所謂〈カルト宗教〉*1で見られる、出家して内閉的な集団を形成するというような「共同体主義」はcommunitarianismというよりも寧ろcommunalismというべきであろう。中野毅氏も指摘していたが、米国において所謂〈カルト宗教〉への社会的反応の基礎にあるのは、それらが「個人主義」という社会規範に違反するという認識である*2
また、日本的な「共同体主義」だが、その真偽はともかくとして、伝統的なムラ社会にまで、さらには稲作農耕或いは日本列島の生態学的条件にまで遡って、それを歴史的に基礎付けるという言説も多い。しかし、宮本常一高取正男の著作を読めばわかるように、伝統的なムラ社会だって、「共同体主義」とか集団主義ということで一括りすることはできない。
政治哲学としての「共同体主義」も「個人主義」を全面的に拒否しているのではない。ベラーを中心に書かれた『心の習慣』
心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ

心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ

を読んでもわかるように、批判されるのは「個人主義」それ自体ではなく、功利主義的なバイアスのかかった「個人主義」或いは〈徳(virtue)なき〉「個人主義」である。さらに哲学的に問題なのは、「個人」を存立させる条件だろう。これについて、「個人主義」的な「自由主義」は「個人」の存在を自明なものと考えており、哲学的には素朴であるといえるだろう。「個人」が存立する条件として、「共同体主義」は客観的に存在する「共同体」(若しくは集団)を強調する*3。それに対して、例えばアレントは複数性ということを強調する。共同主観性に還元されることなき間主観性といいたくもなる。要するに、「個人」を存立させるのは「個人」でもなく「共同体」でもない。「個人」も「共同体」も実体ではないのだから、「個人主義」にも「共同体主義」にもコミットはできないということになる。
ところで、「個人」はどのようにして現れ出るのだろうか。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070226/1172457557とも関連すると思うのだが、小田亮*4が興味深い議論を展開している。小田氏によれば、「〈かけがえのない私〉(個の代替不可能性)を取り戻すことと、見知らぬ誰かとの社会的連帯の回復とは同じことの裏表であり」、〈かけがえのない私〉の恢復は「関係の過剰性」によってである。「役割関係」からの逸脱。そして、曰く、

アルバイトと雇用者とのあいだでも、一緒にいる以上、なんらかの関係の過剰性は生じるわけです。もっとも、アルバイトや派遣のように非正規雇用の労働者の場合、職場という同じ空間を共有しているという同僚意識が正規社員に比べて「クビにする側」に希薄であるため、代替不可能な関係(関係の過剰性)も希薄となり、心理的にもドライな関係を保ちやすく、クビにしやすくなります。つまりそもそも、非正規社員が増加している理由が、「労働力のフレキシビリティ」、つまりクビにしやすい労働力を増やして、労働力をダンピングさせるためなのですから、そのような目的で雇用した労働者との間に「代替不可能性に基づく社会的連帯」を持とうとはしないのでしょう。

そのようなドライな関係(いま思ったんだけど、「ドライな関係」っていうのはもしかして死語?)のほうが、セクハラやサービス残業も拒みやすくなり、なにより面倒くさくなくていいという利点が、被雇用者の側にもあるわけです。しかし、他方で、労働力のダンピングという不利益も引き受けなくてはならなくなります。正規社員が、非正規社員にしかなれないのはそいつの自己選択の結果で「ワーキング・プア」は自己責任だと思っているあいだは、「代替不可能性に基づく社会的連帯」は生じないでしょう。

「共同体」と「個人」を結ぶのは「役割」だと思うが、以前、whatに還元されないwhoの存立可能性は私たちが「役割」を演じ損ねることのできる存在であることによって基礎付けられるのではないかと考えたことがあったが、ここでいう「関係の過剰性」はそれに通じる。
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20070219/p1で引かれている日下公人連座制を復活せよと読める言説はすごいけれど、全く関係ないことを思い出した。イスラームでは、基督教的な原罪説を否定するけれど、その根拠のひとつに、先祖の罪を子孫に押しつけるような無道なことを神がなさる筈がないというのがあったと思う。
最後にまた話は飛ぶが、http://sun.ap.teacup.com/souun/404.htmlのような言説を読むと、本気で「グローバリズム」を擁護したくなってくる。

*1:私はこの言い方を認めてはいない。

*2:同時に共同体や集団を形成する自由という価値も存在するので、話はややこしくなる。

*3:このことについては、異論のある方もいるのではないか。

*4:http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070217#1171701164