先ずは
江原、美輪、細木の3人を一括りにして論ずるのは乱暴だろうとは思う。また、「科学や合理主義では精神が満たされない人たちが、増加しはじめた証拠だろうか」というけど、それは今に始まったことではなく、ここ数十年のトレンドではある。或いは、「宗教的なものを邪険にしてきた、世相の反動」というけれど、日本(というか東亜細亜)という文脈においては「宗教」という言葉の意味自体が自明ではない。また、欧米においても日本においても、制度宗教・組織宗教への不信は共有されており、だからこそ宗教(religion)という言葉は忌避され、spiritualityという言葉を好んで使う傾向がある。総じて言えば、突然というわけではなく、ここで赤堀氏が指摘しているような〈10年の空白〉というのは、〈オウム事件〉に対する一時的なバックラッシュと日本語における「宗教」という言葉の意味の混乱によってもたらされた見かけ上のものということもできよう。〈オウム真理教〉が「宗教」の悪しき側面を体現してしまったということもあるが。
【勿忘草】「江原」「細木」人気の危うさ03/15 09:31
オーラや守護霊が見える江原啓之(ひろゆき)さん。前世は天草四郎だったという美輪明宏さん。「ズバリ言うわよ!」の細木数子さん。
テレビに出まくっている。その理由が、どうしても分からない。
スピリチャリズム、オーラ、六星占術といった立場から、人生相談に応じる番組は総じて高視聴率だ。
「スピリチュアル・コンベンション」。略して「すぴこん」が、この数年、大盛況となっている。
会場には100を超えるブースが並び、ヒーリング、タロット、風水、アロマセラピー、オーラ測定、前世診断など、科学では説明できない世界の情報を発信。学生や若い社会人でにぎわっている。
明らかに10年前とは様子が違う。
中高生のメッカ、東京・原宿の竹下通り界隈(かいわい)にいくつもあった占いスペースに勢いがなくなったのは、10年ちょっと前のこと。
当時、そんな現象を取材した私に、商売あがったりの占い師が、「若者の小遣いが、占いではなくてポケベル代にぜんぶ消えてしまう」と嘆いていたのを思いだす。
水晶や香(こう)などを扱っていたヒーリングショップも、勢いを失っていった。
1995年にオウム事件が起こったことも、宗教や占いから人々を遠ざける一因になったと記憶している。
10年ちょっとの間に、ポケベルは携帯電話に変わった。しかし、若者の懐具合に余裕ができたとは聞かない。知り合いの宗教者にも、「逆風が追い風になった」という人はいない。
なのに最近の、江原、美輪、細木現象なのだ。
宗教的なものを邪険にしてきた、世相の反動なのだろうか。科学や合理主義では精神が満たされない人たちが、増加しはじめた証拠だろうか。
悪いことではないが、そんな風潮には危険性もひそんでいる。
最近の風潮を懸念している弁護士や研究者らを驚かせた出来事がある。
埼玉県川越市で昨年12月に中学生が自殺。遺書にはこう書かれていた。
「絶対にできる人間に生まれ変わる。必ず会いに来る」(赤堀正卓)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/43361/
ところで、小田亮氏が「スピリチュアル・ブーム」について採り上げている*1。特に、http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070309#1173458807では、香山リカの『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』という本を参照しつつ、「1980年代の「ニューエイジ運動」や「自己啓発セミナー」ブーム」と現在の「スピリチュアル・ブーム」との関係について、「香山リカさんの本に決定的に欠けているのが、このニューエイジ運動との関係なのです」と指摘している。「ニューエイジ運動」について、先ず小田氏は
と要約する*2。また、小田氏は「ニューエイジ運動と現在のスピリチュアル・ブームとの非連続性」について、
1980年代のニューエイジ運動はアメリカ経由で入ってきて流行したものでした。自己啓発セミナーも、アメリカのヒューマン・ポテンシャル運動に由来し、ニューエイジ運動の一部とされています。ニューエイジ運動は、「自己の内面の探求」という特徴をもち、究極のリアリティに至るには、家族や地域共同体や学校教育から離脱しなければならないという主張がされます。ただ、日本のニューエイジ運動は、消費文化の側面が強いといわれています。つまり、書籍やヒーリング・ミュージックのCDを買ったり、一人でニューエイジ系のセラピーに行ったりするだけの「消費者ニューエイジャー」が多いと指摘されています。
と述べる。今引用した最後のパラグラフにも関わるのだが、小田氏は香山リカの
私の考えでは、既成の秩序の集団や役割関係から離脱するか否かという点において、決定的な違いがニューエイジ運動と現在のスピリチュアル・ブームとの間にあると思います。ニューエイジ運動では、すでに述べたように、家族や地域共同体からの離脱ということが重視されていました。ニューエイジャーとなった20代〜40代の若い女性たちは、とりわけ家族のなかで抑圧を感じていたからこそ、そこではないところに安らぎを求めていたというわけです。そして、ニューエイジ運動が家族や地域共同体からの離脱の手段として用いたものが、樫村愛子さんも指摘しているように、水平的な平等関係からなる代替的な集団でした(樫村さんは「退行的な水平的共同性」と呼んでいます)。そのことは、ニューエイジ運動が1960〜70年代のカウンターカルチャーの影響を強く受けて誕生したことと無関係ではないでしょう。カウンターカルチャーにおいて、それはコミューンとして現れます。コミューンは、垂直的な地位=役割関係からなる既成の集団(家族・地域共同体・学校・会社などの集団)からの離脱のための小集団でした。
水平的な平等関係からなるコミューンは、ヴィクター・ターナーのいう「コミュニタス」の性格を持っています。しかし、小集団で既成の集団の抑圧から飛び出して作られた「コミュニタス」としてのコミューンは、ターナーのいう「自生的コミュニタス」のもつ一時的という性格どおりに、多くは、自壊するかあるいは「規範的コミュニタス」に変化してカルト集団となるという道をたどっていきます。
ニューエイジ運動は、カウンターカルチャーから水平的な平等関係からなる小集団による既成の集団からの離脱という手段を引き継ぎますが、しかし、コミューンやカルト集団とは違って、水平的な平等関係からなる退行的な集団へのコミットメントを弱くするという方法を採りました。つまり、部分的・選択的コミットメントです。
という言説を「それまでの宗教や新宗教とは異なり、集団(教団)や指導者(教祖、グル)への強いコミットメントを否定するという特徴をもって」いるということの例として引用している。ずれているのは小田氏なのか香山氏なのかは(香山リカのオリジナルのテクストを読んでないので)わからないのだが、ここで重要なのは、教祖/信者、グル/弟子という垂直的な関係ではなく、信者同士、弟子同士という水平的な関係が形成されないということである。これは社会学的(デュルケーム的)意味においては、現在の「スピリチュアル・ブーム」が宗教として存立していないということを意味する。『宗教生活の原初形態』に沿って宗教を理解する限り、或る現象が社会学的に宗教といえるかどうかは、そこに関わる人たちが垂直/水平を含めて〈道徳共同体〉を形成しているかどうかに依存する。そうでない場合、それは呪術ではあっても宗教ではなく、そこで生成されるアイデンティティは信者ではなく顧客である。
「エハラー」と呼ばれるようなスピリチュアル指導者の熱狂的ファンの間には、横のつながりはなかなか育たない。ファンクラブ的な組織が作られることも少なく、トークイベントなどを(ママ)行っても、来場者はあくまでひとりで、あるいはせいぜい友だちと連れ立ってくるくらいで、そこで新しい友だちや仲間ができるといったことはなさそうである。
ところで、現代社会は別の側面においても呪術化が進んでいるといえる。これは何も〈疑似科学〉の蔓延といった話ではない。呪術化は知的所有権の過度な強調によるものだ。近代科学とそれ以前のサイエンスの違いを社会学的にいえば、「オープン・ソース」か否かということである。近代科学はそれによってそれ以前のサイエンスとその社会学的存在形態を区別することができる*3『リナックスの革命 ― ハッカー倫理とネット社会の精神』
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*1:http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070303#1172933795 http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070309#1173458807
*2:「ニューエイジ運動」一般と「自己啓発セミナー」は無関係ではないが、それを1つのものとして見ることはできないのではないかとも思う。宗教との関係で言えば、「自己啓発セミナー」は〈超自然的なるもの〉への言及が殆どなく、その点では或る意味における宗教性は希薄であるといえる。それとともに、教義が〈自己〉にフォーカスしており、世界(宇宙)への配慮は「ニューエイジ運動」一般よりも後退している。また、「ニューエイジ運動」一般とは違って、露骨な〈現世利益〉が強調されるのも特徴の1つといえようか。
*3:オカルトとはそもそも隠蔽されたものという意味であった。