- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/04/20
- メディア: 新書
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目次は
となっている。
序 資本=ネーション=国家について第I部 交換様式
第II部 世界帝国
1章 共同体と国家
2章 貨幣と市場
3章 普遍宗教第III部 世界経済
1章 国家
2章 産業資本主義
3章 ネーション
4章 アソシエーショニズム第IV部 世界共和国
あとがき
本書は『トランスクリティーク――カントとマルクス』をベースにしているという(「あとがき」)。
本書の基本は、「資本」、「ネーション」、「国家」を「生産様式」ではなく、「商品交換」、「互酬(贈与と返礼)」、「再分配(略取と再分配)」という「交換様式」との関係で考察するところにあるといえよう。また、著者のいう「アソシエーショニズム」も「商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動」(p.179)として再定義される。また、本書はマルクスの「資本制生産に先立つ諸形態」と〈世界システム論〉の拡張の試みともいえる。それとの関連で目を引いたのは、カール・ウィットフォーゲルへの高い評価である(p.34ff.)*2。ウィットフォーゲルのアイディアで著者が注目するのは、有名な「水力社会」概念だけではなく、「水力社会」を「中核(core)」とした「周辺(margin)」「亜周辺(submargin)」という構造である*3。
あと、気になった論点等をランダムに挙げていく。これらは後日改めて言及するかも知れない;
「産業資本の剰余価値」における「流通過程」、消費過程の重要性(p.140ff.)――「産業資本の剰余価値は、あくまで労働者が作ったものを買い戻すことによって得られるのです」(p.142)――これは「フォーディズム」を産業資本主義の「全面的」「実現」として捉える見方(pp.145-146)に繋がる。
「想像力」を巡る哲学史的議論(p.170ff.)――これは「想像の共同体」としての国民国家の勃興との関係で。
プルードンへの言及(p.185ff.)――これは啓蒙的な価値あり。
ネグリ=ハートへの批判(p.211ff.)――現代世界における「帝国主義」ではなく「帝国」の不可能性*4。
最後に、マルクス(及びプルードン)と国家についてメモしておく。著者は「マルクスはたえずプルードンを批判しながらも、社会主義に関して、初期から一貫してプルードンの考え方を受け継いでいました」(p.12)という。そして、曰く、
「ゆえに、マルクスの欠陥は国家主義にあるのではなく、むしろ、国家の自立性を見ないアナキズムにこそあるのです」(p.13)ということになる*5。
プルードンは、経済的な階級対立を解消してしまえば、そして、真に民主主義を実現すれば、国家は消滅すると考えました。国家がそれ自体、自立性をもって存在するということを、彼は考慮しなかった。実は、マルクスはこのような考えも受け継いだのです。彼が、一時的に国家権力を握り「プロレタリア独裁」によって、資本制経済と階級社会を揚棄してしまうというブランキの戦略を承認したのは、そのためです。つまり、彼が国家権力奪取を志向したのは、国家主義的だったからではない。現実に資本主義経済を変えようとすれば、国家の力が必要である、そして、国家によって資本主義経済と階級社会を揚棄すれば、国家は自然に消えてしまう、と考えたからです(pp.12-13)。
*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070326/1174934267
*2:それとともに、マックス・ウェーバーへの高い評価も注目していいのかも知れない。
*3:柄谷氏は梅棹忠夫流の『文明の生態史観』をどう評価しているのだろうか。
*4:その前提として、アレントの『全体主義の起源』での議論が参照されている(pp.206-210)。
*5:著者によれば、同様の批判は「リバタリアン」や「アナルコキャピタリスト」に対しても成り立つことになる(pp.215-216)。